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06. 黒き海へ別れを告げて
じんわりと、寝心地の悪い夜だった。
窓を開けていても、入ってくるのは潮の香りが混じった生ぬるい風ばかり。ミルクは目を閉じたまま、何度も寝返りを打った。ホーリーベリー王国のようなカラッとした暑さならともかく、これでは寝ているだけでも疲れてしまいそうだ。
それでもようやくやってきた眠気に身を任せ、うつらうつらとしているさなかのことだった。キィと鳴った小さな音に、ミルクはぱちりと目を開く。ドアの音なのはすぐに分かった。
反射的に隣のベッドに目を向ければ、さっきまでそこで寝ていた筈のダークチョコの姿がない。ミルクはおもむろに上体を起こすと、壁に掛けられた時計で時刻を確認する。もう真夜中だ。
この暑さだ、水でも飲みにいったのかもしれない。そう考えながら、何気なく部屋を見渡してすぐに思考が停止する。ダークチョコの剣がない。
「――ッ!」
血相を変えて、ミルクはベッドを降りた。まさか、そんな筈はない。そう信じている筈なのに、心臓がうるさいくらいに音を立てている。急いで窓に寄って、目を凝らす。
宿から離れていく黒い影を目にした次の瞬間、弾かれたように部屋を飛び出していた。
ざざあ、と岸壁に打ち寄せる波の音。目の前に広がっているのが青く輝く海なら、それは心地好いものに聞こえたに違いない。けれど月明かりすら届かぬ海は暗く、どこか不穏な気配さえ感じる。
「……置いていかれたのかと思いましたよ」
ミルクが灰色の空に向かって吐き出したのは、さっき街中で告げたのとほとんど同じ言葉だった。
「悪かった。だが先ほども言ったが、最初からそんなつもりはなかったぞ」
ダークチョコが座ったまま、こちらを見上げる。少し困ったような表情に、その言葉が偽りではないと改めて感じて、ようやくミルクは胸を撫で下ろすことが出来た。
一人どこかへ向かおうとするダークチョコに追いついた時、泣きそうな声で呼び止めた。そして振り返った彼がひどく驚いた顔をしていたのも構わずに、その腕をきつく掴んで抱き寄せる。何故こんな真似をしたのかをすぐに察したらしい彼は、ミルクを宥めるように背中をさすってくれながら、ゆっくりと告げた。海が見たくなっただけだ、と。
真夜中の港は人気がない。船もほとんど出払っているようで、閑散としていた。
「剣がなかったので、僕はてっきり……」
「念の為だ。荷物は置いてあっただろう? 仮に一人で旅を続けるにしても、必要なものは持っていくと思うぞ」
「そう、ですね……すみません」
はあ、と大きく息をつくと、やっとミルクも腰を下ろした。なかなか落ち着かなかったのだ。生ぬるい風のせいで気分が滅入り、悪い方に考えてしまったのかもしれない。
「今更、お前を置いていくつもりはないから安心しろ」
ダークチョコの視線が暗い海へと向けられる。
「最後まで見届けてくれるんだろう」
「――ええ」
横顔をじっと見つめながら、ミルクは力強く頷く。迷いはなかった。ダークチョコの旅に同行すると決めた時から、いや、彼が日差しを取り戻したあの日には、すでに決心を固めていたのだ。
この目で彼の旅の終わりを見届けると。
クッキー王国で共に過ごした日々は、あたたかな思い出となった。夢のように幸せだったと、今でもミルクはそう思っている。
「この国は、まるで陽だまりのようだな」
ある日、穏やかな表情を見せてくれることが多くなったダークチョコが、ぽつりと漏らした。彼の視線の先にあったのは、ミルクにとっても頼もしい仲間達。だから彼も、同じように幸せなのだと信じて疑わなかった。
自分や仲間達を見て、彼が何を思っていたのかも知らないまま――。
「あの、陽が昇ってから出直しませんか? 雲も多いし、これじゃあ海もあまり見えませんよ」
生ぬるい潮風を浴びながら、ミルクは提案する。日中より風こそ穏やかだが、やはり今夜は暗くて視界が悪い。波飛沫が靴を濡らしていく。
黒い海にダークチョコが引きずり込まれてしまうのではないか。そんな想像が頭を過ぎり、不安が大きくなる。
しかしダークチョコは、海を眺め続けている。もう一度帰ろうと促そうか迷っていると、小さな声で彼が喋り始めた。
「オレが知っている海は、いつも薄暗かった。リコリス海も、あの剣を手にしてから見た、外の海も」
「…………」
「剣を持つ前に、確かに青い海も見たことがあった筈なのに、どうしてだかずっと思い出せなかった」
ミルクは口を噤むしかなかった。掛けるべき言葉が見つからない。
ダークカカオ王国の高い城壁の向こうの海には、黒い怪物が眠っているという――ミルクが幼い頃から聞かされてきた話だ。だから海があんなにも綺麗なものだとは、旅をするまで知らなかった。
けれど今、ミルクが思い浮かべることが出来るのは、青々とした大海原。クッキー王国の海だ。
だがその青い海も、ダークチョコが現れるといつもと表情を変えてしまう。イチゴジャムマジックソードの呪いのせいだった。結局彼とあの王国の青い海を見たのは、数えられるほどだけ。
「……ダークチョコ様は、黒い海の方が好きですか」
ミルクの質問に、ダークチョコは溜息にも似た小さな笑いを漏らす。
「いや。海も空も、青い方がずっといい。……ただ少し、懐かしくなってしまってな」
遠くを見つめているその赤い目が、一体何を映し出しているのかはミルクには分からない。それでもダークチョコは、存外やわらかな声で続けた。
「この黒い海を見るのも、もしかしたらこれで最後になるかもしれない。そう思えば、意外と美しく見えるものだ」
まるで応えるように、黒い海が飛沫を上げる。
「そうかもしれませんね。でも」
飛沫で濡れたダークチョコの手に、ミルクはそっと自分の手を重ねた。彼の視線がゆるりとこちらを向く。
「僕としては、これからもたくさん一緒に見られたら嬉しいですね。黒い海も、青い海も」
「……そうだな」
ざざあ、と音を立てながらやってくる小さな黒い波を、二人で見つめる。さっきまでの不気味さは、もう感じられなかった。
少しして、ダークチョコがゆっくりと立ち上がった。それからミルクの顔の前に、すっと手を差し出してくる。いたずらっぽく笑うその顔を、ミルクは見上げた。
「朝起きたら、さっそく付き合ってもらうことにしよう。今度は、青い海を見に」
「ええ、喜んで!」
しっかりと掴んだ手を頼りに、ミルクも腰を持ち上げる。明日の朝もまた二人で迎えられるのだと、お互いに信じきっていた。いつか、おそらく近い未来にこの旅が終わってしまう日はやってくる。けれどそれは、明日ではない筈だ。――きっと。
ミルク達が岸壁から離れた頃になって、雲の合間から月がひっそりと顔を出した。ふと振り返ってみれば、黒い海にも小さな光がぽつりと浮かんでいる。
(by sakae)
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