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青く、広がる空。長い間見ることすら叶わなかったそれに、ダークチョコは今も時々見入ってしまうことがある。
だから手が空いたその時も、天を仰いでいた。澄みきった青で染まった視界の端に、ふいに映り込んできた何かに目を奪われる。少しだけ距離を空け、並ぶように飛んでいるのは風船だった。とはいえ特段珍しいものというわけでもなく、この時はさほど気に留めていなかった。
それからしばらく経って日が傾き始めた空を、再び風船が漂っているのを目撃する。今度はみっつ、すべて色が違う。悠々と飛んでいる風船を目にして、何か特別なことでもあっただろうかと少し興味が湧いてくる。
クッキー王国では祝い事や大規模なイベントが開かれる際、一定期間の間風船を飛ばすことがあった。しかしダークチョコが把握している限りでは、今はそのような予定はなかった筈だ。それに、イベント用にしては数が少ない気がする。しばし首を捻っていたが、やがて空から目を離した。あれこれ考えたところで、どうせ答えは出てこない。誰かに聞いた方が手っ取り早いだろう。
そう思っているところに、ちょうどこちらへ向かってくる二人組がいた。だが何やらお喋りに夢中になっているらしい彼らはダークチョコに気付くことなく、一人が上空を指差して立ち止まる。
「あら、風船だわ〜! 何かお祝い事でもあったかしら?」
「さあ。何かイベントがあるといったような話は、特に聞いていませんね」
言いながら小首を傾げたのはミントチョコだ。何か催しものがある時には、彼はバイオリンの美しい旋律で場を盛り上げる。彼も知らないとなると、やはり特別なイベントが行われているわけではなさそうだ。
「そうなの? でも、何だかのどかでいいわね〜。あれを眺めながら、ゆっくりココアを飲みたいわ」
「それでしたら、ゆったりとした曲と共にお楽しみください」
上を向いたまま楽しそうに笑い合う二人の邪魔にならないよう、ダークチョコはそっと歩き出した。
ちらりと見遣った空に浮かぶ風船は、確かに見ていて悪い気はしない。
軽くなった足取りで向かったのは、王国の外れにある高台だ。開拓が進んでいないその周囲には、何もない。ただ広がる緑の絨毯に腰を下ろして、そこから王国を見渡すのが好きだった。
夕陽のあたたかな日差しに染まった街並みを眺める。ささやかなこの楽しみは、しかし呪われた剣を手放すまで決して許されなかったことだ。もちろん犯した罪がなくなったわけではないが、それでもここにいる間だけは、ダークチョコは不思議と明るい気持ちになれる。
ふと思い出して空に目を向けるも、風船はひとつも見当たらない。暗くなり始めたその色に、夜の気配がぐっと近づいていることを気付かせられた。
視線を下ろすと、こちらに向かってくる白い人影を捉える。じっと眺めているうちに顔を上げたその人物は、大きく右手を振ってみせた。やがて高台に登ってきた彼は、ダークチョコの顔を見て笑みを深める。
「こんばんは! 今日も一日いい天気でしたね」
にこやかな顔に釣られるように、ダークチョコも口元を緩めた。
そうして二人は、いつものように揃って街を見下ろす。ここからなら街を一望出来ると教えてくれたのは、ミルクだった。
「僕のお気に入りの場所なんです」
初めてクッキー王国にやってきたその夜。少し気疲れしていたところ彼に腕を引かれ、たどり着いた静かなこの場所を、ダークチョコはいたく気に入っている。やわらかな月の光に照らされた街並みを見て、やっと安堵することが出来たのだ。あの剣を捨てたのは間違いではなかったと。
仲間達が生活する街を見下ろしながら、二人で話をした。最初の夜どんな会話をしたのか、正直ダークチョコは覚えていない。取り留めのない話だったように思う。けれど、とても穏やかな気持ちになったことだけは覚えている。今だってそうだ。
ミルクと二人きりで過ごす優しい時間は、ダークチョコが王国に馴染んでからも続いている。
飽きもせずに街を眺めては時折喋って、夜が王国を包む頃になったら帰路につく。毎日ではなかったものの、用がなければそうやって二人で夜を待った。ダークチョコはちょっとした暇が出来た時にも立ち寄っているが、ミルクの方はどうだろうか。聞いたことはなかったが、元々彼のお気に入りの場所だ。だからきっと、一人の時も同じように過ごしているに違いない。そう思えば思うほど、ダークチョコはこの場所を好きになっていった。
すっかり忘れ去っていた風船の存在をダークチョコが思い出したのは、翌日の昼になってから。むしろ空に浮かぶそれを見て、昨日のことを思い出したくらいだ。
今日もまた風に乗ってやってくる。その数は、明らかに昨日より増えていた。
「わあ〜、風船だー!」
目を輝かせているのは、この王国の中心人物ともいえる少年だ。その様子からして、彼もあの風船には関与していないらしい。受け持っていた仕事を交代したばかりのダークチョコは、少し迷ってから歩き出した。向かった先はいつもの場所ではなく、風船がやってくる方向。
黙々と歩いているだけだったのに、途中何度も話しかけられた。それは短い挨拶だったり世間話だったりと、何てことのない会話ばかりだったが、この王国に来るまで人々から避けられていたのもあって、最初のうちはひどく戸惑ったものだ。
だが今思えば、人々を避けていたのは自分の方だったのかもしれない。そんなことを考えながら話のついでに風船のことを尋ねてみれば、公園から飛ばしているようだと教えてくれた。
願いの樹にほど近い場所に公園があった筈だ。そちらを目指して歩いていると、確かに風船はその辺りから飛んでくる。近くまでたどり着いた時、ちょうど背の高い木々の向こうから黄色い風船がひょっこりと顔を出し、そのまま空へ昇っていった。
「あ、ダークチョコだ!」
公園に入ってすぐ、こちらに笑顔を向けてきたのは王冠を被った子どもだ。思ったとおり、公園の中には数人の子ども達の姿があった。紐のついた風船を持っているものもいる。そんな子ども達の中に、思いもよらぬ人物が混ざっていた。
「ダークチョコ様!」
子ども達と共にこちらを見上げてきたのは、しゃがみ込んでいるミルクだった。面食らいつつも、ダークチョコは彼らに近づき話しかけてみる。
「何をしているんだ」
「風船飛ばしてるの! へへっ、ボクより高く飛ぶんだよ!」
見ててね、とパンケーキが紐を手放した途端に、オレンジ色の風船がふわりと上空に浮かび上がる。そして風に乗って、港の方に向かって漂い始めた。
楽しそうにそれを目で追いかけている子ども達の傍らで、ミルクが何かしている。彼の片手にある風船はぺっちゃんこだった。それが小さなタンクの先についたノズルを差し込まれると、みるみるうちに大きくなっていく。しゅー、という音と初めて見る光景に、ダークチョコはつい見入ってしまっていた。子ども達はおろか、大人の顔より大きくなった風船からノズルを引き抜いたミルクは、風船の口を手で伸ばしてキュッと結ぶ。その様子に割れてしまうのではないかと内心はらはらしていたのだが、杞憂だったようだ。
仕上げに紐を結びつけた黄緑色のそれは、紫髪の少女に手渡される。おずおずと受け取った彼女は、小さく微笑んでミルクに礼を告げた。
「オレのと一緒に飛ばそうぜ!」
そう言ったバブルガムと共に少女が風船から手を離すのを見守りつつ、ダークチョコは立ち上がったミルクをちらりと横目で見遣る。
「昨日もあれが飛んでいるところを見かけた。何か祝い事でもあったのか?」
「祝い事、ではないんですけど、近いかもしれませんね」
微笑みながら答えた彼は、子ども達を優しい眼差しで見下ろした。どういうことだろうか。ダークチョコが聞き直すより先に、ミルクを見上げた子ども達が声を弾ませる。
「もう一個作って!」
僅かに眉尻を下げたミルクが、軽々とタンクを持ち上げた。
「すみませんが、もう空っぽで……。また明日飛ばしましょう!」
「ええー!」
残念そうな声を上げた子ども達だったがすぐに笑顔を取り戻し、きらきらとした目をミルクに向ける。
「明日はもっと飛ばそう!」
「あれもたくさん貰ってこないと!」
「分かりました!」
あとで錬金術師ちゃんにお願いしておきますね、と続けたミルクに、彼らは満足げに飛び跳ねる。
子ども達は自由気ままなもので、ミルクが後片づけをしている間にも次の遊びの相談を始めた。その様子をぼんやり眺めていたダークチョコだったが、目が合うなり近寄ってきたカスタード三世に僅かに後ずさる。嫌な予感がしたからだ。
「ねえねえ! かくれんぼするんだけど、キミもどう?」
「……いや、オレは遠慮しておこう」
「えー! 何で〜?!」
子どもが嫌いなわけではないが、同じテンションで遊ぶのは難しそうで断る。すぐさま起こったブーイングに困惑していると、片づけを終えたらしいミルクが助け舟を出してくれた。
「ダークチョコ様も僕も、お昼がまだなんですよ!」
「そうなの? だったらしょうがないなあ〜お腹空いてると、力が出ないもんね!」
カスタード三世がうんうんと頷く。どうやら他の面々も納得してくれたようだった。ダークチョコは気付かれないよう、こっそり胸を撫で下ろす。
ミルクと共に公園を離れ、そのまま一緒に昼食をとることにした。キャロットご自慢の野菜がたっぷり挟まったサンドイッチを手に向かったのは、あの高台だ。
「うん! この新作のサンドイッチもおいしいですねー!」
口いっぱいに頬張ったミルクは、満足そうに顔を綻ばせた。パンの間からはみ出し、こぼれ落ちそうになったキャベツに気付いた彼は、また急いでかぶりつく。
ダークチョコは先に「サンドイッチと一緒に!」とおすすめされたハーブティーからいただくことにした。まだあたたかいそれからは、ほのかに甘い香りがする。優しい味にほっと一息つくと、バスケットに詰められたサンドイッチをひとつ取った。タマゴサンドにもキュウリがたくさん入っている。
しゃきしゃきとした食感を楽しみつつも、目は自然と港の方を向いていた。遥か前方を遠目に眺め、すでに飛んでいってしまった風船を思い浮かべる。
「あの風船は、幸せを願って飛ばしていたんですよ」
ダークチョコの視線に気付いたらしいミルクも、港へと顔を向けた。
「……幸せを?」
「ええ。カスタードくんが親戚の方に会いにいった共和国で、風船がたくさん飛んでいるのを見かけたと喜んでましてね」
手に持っていたサンドイッチの残りを口に入れたミルクは、もぐもぐと食べきってから再度口を開く。
「ちょうどその日は結婚式が行われていて、その関係で風船を飛ばしているんだと一緒にいた叔父さんに教えてもらったそうなんですよ」
「それで自分も飛ばしたくなったというわけか」
はしゃいで話しまわるカスタード三世の姿を想像するのは、容易いことだった。思わずダークチョコが笑みをこぼすと、同じようにミルクも笑う。
「そうみたいですね! 昨日は共和国から帰ってきてすぐ魔導士くんに、何度か魔法で風船を飛ばしてもらったと言ってました」
昨日見かけた風船は、魔法で飛ばしたものだったようだ。ダークチョコは黙って話を聞き続ける。
「空気より軽い気体を入れた風船を使えば、魔法を使えなくても飛ばせると教えてもらったようで。さっそく今日、錬金術師ちゃんにお願いしてこれを貰ってきたんだそうです」
言いながらミルクが指差したのは小ぶりのタンクだ。どうやら、それに空気よりも軽い気体とやらが入っていたらしい。
「だけど必ず大人に膨らませてもらうよう釘を刺されちゃったらしくって――そこでたまたま出会った僕に、白羽の矢が立ったというわけです!」
嬉しそうに胸を張る彼は、面倒見がいいから子ども達にも頼りにされているのだろう。笑顔で引き受ける姿も簡単に想像がつく。微笑ましく思いながらタマゴサンドを食べ終えたダークチョコは、疑問を口にした。
「しかし、幸せを願って飛ばしていたというのは……」
「それも叔父さんから聞いたんだと言ってましたよ。……結婚式で飛ばしてたというから、多分、二人の幸せを願ったものなんじゃないかと思うんですが」
「なるほどな」
カスタード三世はもっと大きな意味合いで捉えたようだ。案の定、民達の幸せを願って飛ばすんだと張りきっていたらしい。
「でもそういう考え、すごくいいですよね! 実は僕も、ひとつだけ飛ばしてみたんですよ」
はにかんだ笑みを浮かべたミルクが願ったのは、おそらくこの王国や世界中の人々の幸せだろう。そんなことを考えながら彼の顔を見つめていると、次のサンドイッチを手にした彼がじっとダークチョコを見返して言った。
「そうだ! 明日はダークチョコ様も風船を飛ばしてみませんか?」
「オレが、か……?」
ダークチョコは反射的に顔をしかめていた。風船を飛ばすのが子どもじみた行動だと憤ったわけではない。ただ己のような男が、たとえ自分自身に対してではないとしても幸せを願うなんてこと、許されるのだろうか。そんなふうに考えてしまったのだ。
黙り込んで街を見下ろす。この王国の幸せを願ってしまえば、眩しい日差しで照らされたそこに、逆に影を落としてしまうのでは――そう表情を曇らせたところで、ミルクに呼びかけられてドキリとする。
「はいどうぞ!」
「あ、ああ……」
視線を戻すと同時にサンドイッチを手渡された。ついつい受け取ってしまいながらもたじろいでいるダークチョコに、ミルクが気合いを入れるように片手でぐっと拳を作る。もう一方の手にあるサンドイッチは、すでに半分ほどの大きさになっていた。
「僕がさっき食べてたのと同じものです。おいしかったので是非!」
勢いに押され、ダークチョコはサンドイッチをかじる。細く刻まれたキャベツやニンジンは見るからに入っているのが分かっていたが、他にも色々入っているようだった。ハムとキュウリに、これはリンゴだろうか? マヨネーズがベースのようだが、それとは別の酸っぱさも感じる。
「ね! とってもおいしいでしょう?」
にっこりと笑いかけられて、ようやくダークチョコはサンドイッチに夢中になっていたことに気付いた。気恥ずかしさから顔を背けるが、楽しげな笑い声は耳に入ってくる。いつの間にか、暗い気持ちは吹き飛んでしまっていた。
「難しく考えなくっても、そんなふうにその時思ったまま、気持ちを込めればいいんだと思いますよ」
ハッとなって、ミルクに目を戻す。しっかり見抜かれてしまっていたらしい。口の端に付いたマヨネーズを指摘してやりながら、ダークチョコは苦笑した。
バスケットから取った紙ナプキンで慌てて口のまわりを拭うミルクだったが、まだ取りきれていない。
「じっとしていろ」
ダークチョコは食べかけのサンドイッチを置き、ミルクの顎を掴んで自分の方へ向けさせると、新しい紙ナプキンで汚れを拭いてやった。
「あ、ありがとうございます……!」
顔を赤くしたミルクが俯く。彼は居住まいを正しバスケットに手を伸ばしたが、結局何も取らずに引っ込めてしまう。ミルクらしかぬ行動に首を傾げたダークチョコだったが、先ほどの自分の行いがいけなかったのではないかと思い至り、反省した。ずっと年下とはいえ、ミルクだってもう幼い子どもではないのだ。
「すまない、気に障ったか?」
「いえ! そんな、とんでもない! むしろ嬉しいくらいです!!」
謝るダークチョコに、ミルクはあたふたと手を動かしながら大きな声で即答する。不思議に思って様子を伺っていると、彼は決まりが悪そうに目を逸らして続けた。
「嬉しいんですけど……その、少し複雑で」
「……複雑?」
聞けば聞くほど、よく分からない。
うーん、と難しい顔をして何やら考え込んでいる様子のミルクからいったん目を離したダークチョコは、ドリンクカップを手に取った。白いフタのそれは自分のものではなく、ミルクが選んだもの。確か同じ種類のハーブティーに、はちみつとミルキー牛乳を加えたものだった筈だ。それをミルクに手渡してやる。きっと少しは落ち着くだろう。
慌てたように受け取ったハーブティーを、それでもミルクはゆっくりと飲み始めた。その様子に満足して、ダークチョコもハーブティーを飲む。さすがに冷めてはいたが、優しい香りが口の中に広がっていく。
「……甘やかされて喜んじゃうから、僕はいつまで経っても格好がつかないんでしょうね」
溜息と共に吐き出された言葉に、ダークチョコはひどく驚いた。思わずミルクを凝視する。
「お前はそういったことは、あまり気にするようなタイプではないと思っていたが……」
「そんなことありませんよ」
ハーブティーのおかげで落ち着きを取り戻したのか、薄い色の瞳としっかり視線が合わさる。
「僕だってあなたには、ちゃんと大人の男として見てもらいたいって思ってますから」
「そう、か……」
途端に鼓動が激しくなったように感じたのは、気のせいだろうか。ダークチョコは視線をさまよわせ、食べかけのサンドイッチが目に入るとそれを掴んだ。何となく顔を上げづらく、俯き加減のまま口に運ぶ。そうして食べたサンドイッチは、さっきより少しだけ酸っぱい気がした。
翌日の夕方には幸せを願う風船飛ばしは、すっかり王国中に知れ渡っていた。至るところで風船を手に、笑顔を浮かべているもの達の姿を見かける。子どもだけでなく、大人達も混じっているのは賑やかなこの王国らしいと、ダークチョコは思った。街は普段以上に優しい雰囲気に包まれている。
「わ〜、いざとなると何を願うか迷うね! もっと勇敢になれますように? それとも、もっとたくさんの人達がこの王国にやってきますようにかなあ?」
「あたし、新しいゲームが欲しい……!」
「ちょっと二人共、クリスマスとか七夕じゃないんだからさあ。ほら、こうやって幸せを願うんだよ」
大きな溜息をついたあと、魔導士は呪文を唱えた。あれは確か、幸運と楽しさをもたらすのだと聞いた覚えがある。それから別の呪文を唱えた彼は、風船を浮遊させた。青い風船が空を漂い始めたのを見届けた三人組は、ダークチョコに気付いて手を振ってくる。
「あ、ダークチョコ! キミはもう風船を飛ばした?」
「いや」
「やっぱり何お願いするか、迷うよねー!」
「だから――」
首を横に振ってみせると、少年が大きく頷く。魔導士が呆れたように口を開いたちょうどその時、パアンと聞こえてきたのは破裂音だ。広場にいたもの達の視線は一斉に一箇所に集まる。
「何だよ弱い風船だな!!」
「う〜ん。もっとムキムキな風船にしたいのに持ち堪えてくれん!」
「そこ! 無駄遣いしない!」
どうやら膨らませている途中で風船が割れてしまったようだ。例の気体をたくさん用意したとつい先ほどまで胸を張っていた錬金術師が、今はカンカンに怒っている。ダークチョコもさっき粉雪にお願いされてやってみたが、風船を膨らませるのは意外と難しい。最初のひとつは充分に膨らんでいなかったのか、うまく飛んでいかず、結局作り直したのだ。もしもそのことが錬金術師にバレていたら厄介だと、こっそり退散する。
ダークチョコの行き先は、ちょうど風が向かう方角と一緒だった。いつもの場所に向かう間にも、オレンジ色に染まりつつある空を漂う風船がいくつも目に入ってくる。高台の方を見上げてみれば、こちらに手を振る人影が見えた。今日はミルクが先だったらしい。片手を軽く上げて応えると、少し急ぎ足で道を進む。
そうして高台にやってきたダークチョコを出迎えたミルクは、いつにも増して機嫌が良さそうだった。彼が持つ紐の先でふわふわ揺れている赤と水色の風船も、どこか楽しげに見える。
「ダークチョコ様のお姿が見えたので、先に膨らませておきました!」
そう言ってひとつ差し出してくるので、ダークチョコは素直に受け取った。一緒に風船を飛ばそうだなんて約束していないのに、さも当然といったような彼の行動にも、すっかり慣れてしまったものだ。そしてそのことを、嬉しく思ってしまっている。
胸のうちを隠すように、街の方から飛んでくる風船に目を遣った。色とりどりのそれらは、それでも同じような想いが込められているのだろう。しばらくその光景を眺めたあと、ダークチョコはミルクに視線を戻す。
「やはりお前は、皆の幸せを願って飛ばすのか?」
自分から聞いておきながら、こういうのは口に出さない方が効力があったりするのだろうかと考えてしまった。だけどミルクはやわらかく目を細め、ダークチョコを見つめ返してくる。
「それは先日お願いしたので、今日は別のお願いをしてみようかと!」
「そうか」
別のお願いとは何だろうか。疑問に思いつつもダークチョコはそれ以上聞かなかった。
海に沈もうとしている太陽を一瞥すると街に背を向け、手に持った風船を見上げる。夕焼け空に溶け込みそうなそれに何を願うのか、もうほとんど決まっていた。
故国にいた時なら、迷わずすべての国民の幸せを願ったに違いない。けれどダークチョコは、もはやあの国の王子ではなかった。たくさんの人々を苦しめておきながら、彼らの幸せを願うことなど今更出来やしない。それでも。
祈るように目を閉じると、そっと手を開く。
「ダークチョコ様の進む道に、光あらんことを」
空になった手をやんわり包みこんでくる優しい温もりに、胸の奥がじんわりと熱くなる。自分のことを想ってくれるこの男の為になら、幸せを願っても許されるだろうか。ダークチョコは手放したばかりの風船を見上げた。
願いを託した風船が、赤い空へと消えていく。
(by sakae)/
END
(23-10-01初出)
ファニヤミ2にて発行されたミルダクアンソロジー「聖なる闇の肖像」に寄稿させていただいたお話でした!
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