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04.空の両手を空へと
彼女は横たわったまま、動かない。ただ桃色の長い髪だけが以前と変わらない様子で、時折ふわりと風に揺れている。
「――馬鹿だよ、アンタ」
こぼれた声は小さかった筈だ。けれど静かなこの場所では、やたらと大きく聞こえた。静か過ぎる。
――当たり前、か。いつもうるさいアンタが、黙りっぱなしなんだから。
代わりに木々がざわめいた。
「ボクとは、もうお別れだったんじゃなかったの?」
アンタはもうボクらの元には戻らないと、そう言った筈だ。なのに再会しちゃったじゃないか。嘘つきだね、アンタは。
「結局、犬死にじゃん」
動かないアリエッタを見下ろして、嘲笑う。
――だから言ったじゃないか、無駄だって。
当然、反応はない。分かっている、分かっていた。それでももどかしくて、彼女の傍らにしゃがみ込む。胸の前で人形を抱いているのは、ここまで彼女を運んできたラルゴの仕業だ。
「呑気なもんだね。仇、取れなかったんだろう?」
思っていたよりも穏やかなその顔に、まるで彼女はただ眠っているだけなのだと錯覚しそうになる。
だけど青白い。彼女はこんな顔色をしていただろうか。思わず頬へと手を伸ばしていた。つめ、たい。こんなに冷たかったっけ?
過ぎる疑問にボクは首を振った。……分からない、思い出せない。こんなふうに彼女を見つめるのも、彼女に触れるのも、初めてのことだった。そして、これが最後だ。
だって彼女は、アリエッタは、もう死んでしまったから。
――ああ、だから冷たいのか。理解した途端に、乾いた笑いが込み上げてくる。
「ホント、ダサいよ。アンタ」
導師は、被験者イオンはとっくに死んでいるのに、アンタはそれに気付きもしないで死んでいくなんて。
「……愚か者って、アンタみたいなのを言うんだろうね」
一房取った髪をいじりながら、吐き捨てた。馬鹿馬鹿しいにもほどがある。笑い飛ばしてやりたかったのに、何故かそれが出来なくて、舌を打った。
――もやもやする。ホントイライラするよ、アンタを見てると。
手を広げると、ぱらぱらと落ちていく桃色。その髪が彼女の片目を隠してしまう。何だか欝陶しく感じ、反射的に手を伸ばしていた。
再び触れた肌は先ほどと変わりなく、冷たいままだった。閉じられたままのまぶたに触れてみる。
よく泣く女だった。払いのけた髪とよく似た色の瞳は、涙の中に沈められていることが多かった。
だけどもう彼女が涙を流すことはないし、その瞳に何かを映すことも、ない。
「……?」
ふと、誰かに呼ばれた気がして顔を上げる。
ラルゴは森の奥へ行ったきり戻ってきていない。第一、もっと高い声だった。
不思議に思ってアリエッタの顔を覗き込んでみたものの、彼女は静かに眠ったままだ。当然、言葉を紡ぐ筈がない。空耳だろうか。
ざわざわと風が木を揺らす。
『――シンク』
「……っ」
違う。聞き間違いなんかじゃない。確かに呼ばれた。
いや、間違いなくアリエッタの声だった。だけど目の前にいる彼女じゃない。図々しくもボクの脳裏に居座り続けている、記憶の中の彼女が呼んでいたのだ。
『ねえシンク、シンク――』
とっくにこの世界から消えた筈の声が、耳の奥で響いている。いつ聞いた声なのか、覚えてもいないのに。しつこく、何度も何度も呼んでくる。
目を閉じ首を振っても、ボクの中で響き続ける声。
「……さい」
――うるさい、うるさいっ! アンタは死んでんだから、大人しく静かにしててよ!
頭が、痛い。両手で覆うように押さえる。そうすれば少し楽になった気がして、目を開いた。
目の前にはアリエッタがいる。けれど彼女が喋ることはない。ただボクの中に残っている彼女だけが、喋り続けている。
うるさい、うるさい――いつもアンタが呼んでいたのはアイツだろう?
吐き気が、する。
「――ッいい加減黙ってよ!!」
こんな時にだけ、ボクを呼ぶなッ!
拳を振り上げる。何とかアリエッタを黙らせたかった。だけど拳が彼女を叩きつけることはなかった。
「抵抗のしようもない相手に、手をあげるつもりか?」
「……」
いつの間にかすぐ後ろに立っていたラルゴが、ボクの腕を掴んでいた。振り払おうと力を込めても、彼の手から逃れることは出来ない。
「離せよ」
低く言い放つとラルゴはボクを見据えたまま、ゆっくりと手を離した。解放された腕と共に、体中から力が抜けていく。地面に両手と膝をつき、息を吐き出した。もう声は聞こえてこない。
「――まあ、アリエッタが死んで、悲しい気持ちは分かるがな」
しばらくそのまま地面を見つめていたが、ラルゴの呟きに顔を上げる。何を言ってるんだ、コイツは。
ボクを見下ろしていたラルゴと視線がぶつかる。
「悲しむ、だって……? ――冗談じゃない。アンタに頼まれなけりゃあ、ボクはこんな場所なんかに来なかった! 間抜けな死に顔だって、見なくて済んだんだ……!」
思わず声を荒らげていた。
だけどラルゴは驚いた様子も見せずに、「それは悪いことをしたな」とだけ言って、ボクから視線を動かした。細められた双眼がアリエッタを捉えている。
彼女を埋める為の穴を掘ってくるからと、ボクに彼女を押しつけるようにして任せたのはラルゴだった。
「アリエッタの方は、お前と仲良くしたがっていたようだったもんでな」
「……は、何だよそれ? 馬鹿じゃないの」
何が仲良くしたがっていた、だ。風に揺られる桃色へと目を向ける。
穏やかに眠るアリエッタ。仇を討つのを失敗したくせにそんな表情をしているのは、死んだらイオンに会えるとでも思ったからに違いない。
結局、彼女は導師のことしか見ていなかったんだ。――最後の最後まで。
「……確かに。今更そんなこと言ったところで、どうしようもねえな」
ラルゴは大きく息を吐き出すと、アリエッタの体を軽々と抱き上げた。大きな腕の中に収められた彼女の体は、いっそう小さく見える。
そう、彼女はちっぽけな存在に過ぎなかった。だから彼女が生きようが死のうが、ボクに何の影響も及ぼさない。及ぼす筈がない。
強い風が吹きつける。静かだった森が、一瞬にして大きくざわついた。嫌な風だ。まるで誰かを呼んでいる声のようにも聞こえて、不愉快だった。
「お待ちかねのようだ」
同じように感じたらしい。ラルゴが風がやってくる方向、つまりは、さっきまで彼自身がいた方に向き直って呟いた。
彼の腕の中で桃色の髪が揺れる。そう、呼ばれたのはアリエッタ。呼んだのは――。
「お前も来るか?」
一歩踏み出して、ラルゴが振り返る。冗談じゃない。首を振る。これ以上、アイツが眠る場所なんかに近寄りたい筈がなかった。
「そうか」
ラルゴが背を向けた。風になびく桃色が、ちらりと見えた。黙々と森の奥に進んでいく大きな背中と共に、ゆっくりとその桃色も、ボクの視界から遠のいていく。
やがて見えなくなった。――これでもう、アンタに会うことはない。
残されたボクの元に訪れたのは、静寂。さっさとここから離れてしまいたいというのに、何故か体が重くて立ち上がろうにも立ち上がれない。重たい何かがズシリと胸にのし掛かっているような気がした。その一方で、胸に大きな穴が開いてしまったかのように、体の中から何かが失くなっていく気もした。
――失うモノなんて、ないだろう? 胸に手を当てて、自嘲する。頼みもしないのに勝手に動き続ける心臓は、やっぱりそこにある。何も変わりやしない。何も失ってなんかない。ボクは最初から、何も持っていないから。
くだらない。立ち上がろうと腕に力を込め、地面に視線を落とした時、右手に何かが付いていることに気が付く。何だ?
そっと持ち上げると、桃色の細い糸のようなもの――アリエッタの髪の毛が一本、指と指の間に挟まっていた。途端に手が震え出す。
「ホント、馬鹿、じゃないの……アンタ」
笑ってやろうとして開いた口から漏れ出た声も、掠れてしまっていた。すでに眠り続けるアリエッタの姿すら、目の前にはないというのに。
馬鹿だ、馬鹿だ、馬鹿だ! 何もアンタが死ぬことなんて、なかったじゃないか――!
今、口を開けば情けない声しか出てこないような気がして、ギリッと奥歯を噛みしめる。
風が唸った。ざわめく森。ハッと気付いた時には遅かった。桃色の糸が、風にさらわれる。追いかけようと伸ばした手は、宙を掴む。いつか散っていった花のように、呆気なく風に連れ去られてしまった。
「――ふざけるなッ!!」
震える声で叫んだ。空っぽな筈のボクの中から、あのザレッホ火山のマグマが溢れ出してくるような気がした。
「お前のせいだろうッ! お前のせいでアリエッタは死んだんだッ!」
あの日、花を引き抜いたのはボクだ。アリエッタを泣かせたのはボクだ。風を睨みつける。
だけど、ずっとアリエッタが泣いていたのは、アリエッタが死んだ一番の原因は――お前じゃないか、被験者!!
「お前が自分の死を告げなかったからだ! だからアリエッタは意味もなく戦って、死んだんだ――ッ!」
風はまだ止まない。
ねえアリエッタ。アンタも文句のひとつくらい言ってやればいいよ。お前のせいで泣き続けていたんだと、お前のせいで死んでしまったと。アイツを責めてやればいい。憎めばいいのに。
それなのに、どうして。――どうしてアンタは、アイツの元なんかに行くんだ!
一際大きな音を立てながら風が横切る。それきり、森は静けさを取り戻した。
伸ばしていた手が力なく地面へ落ちていく。うなだれたボクの手には、もう何も残されていなかった。
(by sakae)
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