ムーンロードの先へ - 12/13

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12. 旅立ち

 思えば、イチゴジャムマジックソードを手に取る前から、とうに世界は色あせていたのかもしれない。真っ青な空を見上げながら、ダークチョコがふと考えたのはそんなことだ。

 ダークカカオ王国にいた頃は、ただ強くなることだけを考えて生きてきた。幼い頃から、ずっと。
 それでも最初のうちはまだ希望があった。早く強くなって父と肩を並べて戦えるようになれば、いつかあの人も自分に微笑みかけてくれるに違いない。幼いダークチョコはそんな夢物語を見ていたのだ。
 だが所詮、夢は夢でしかないのだと、すぐに打ち砕かれることとなる。
 ある日いつものように剣術の稽古の為、城の外にある訓練場へと向かっていた時のことだ。突然猛吹雪に見舞われ、ダークチョコの視界は白く染まり、前を歩いていた筈の父の背中さえ見失ってしまった。ひたすら白いのに、まるで闇の中に一人放り出されたかのような感覚に、恐怖で足がすくんでしまう。それでも、誇り高きダークカカオ王国の戦士の一員となるのだから、と自分を奮い立たせ、必死に歯を食いしばって視界が明けるのを待った。
 ようやく猛吹雪が治まっても父の大きな背中は見当たらず、ダークチョコは再び襲ってくる絶望の中、どうにか足を動かして訓練場へとたどり着く。そこには、いつものように父がいた。思わず駆け寄ろうとしたダークチョコに、父は表情すら変えずに言い放った。
「遅い」
 雪よりも氷よりも冷たいその一言に、思い知らされたのだ。この程度でうろたえるような息子など、必要ない。父が欲しているのは猛吹雪などものともしないような、屈強な戦士だけ。無力な子どもに価値はないのだと。
 このままでは父に見限られてしまう。そんな恐怖に、ダークチョコはただ力を渇望した。早く、強くならないといけない――。その日を境に、まだ時々遊んでいたおもちゃをすべて手放して、がむしゃらに剣の腕だけを磨き続けるようになった。
 少しずつ強くなっても、父が向けてくるのは相変わらず氷のように冷たい目。その現実に挫けそうになった時、ダークチョコは日差しを浴びた。雪雲の向こうに隠れっぱなしなことも少なくなかったが、それでもそのうちに顔を出しては必ずあたたかな温もりを与えてくれる太陽が、大きな救いとなっていたのだ。
 やがて幼い子どもでなくなったダークチョコは、父が常に正しい道を示しているのではないと、危惧の念を抱くようになった。王である父が間違い続けてしまえば、この国はいつか滅びてしまう。
「この王国には改革が必要です! いつまでも黙って見ていられません!」
 歪んだ道を正そうと、声を上げた。だがしかし、父は耳を傾けてもくれなかった。拒絶するようにさっさと立ち去っていく父の背中を、呆然と見送ることしか出来ずに、ダークチョコは絶望する。
 何故――ああそうか、自分が父より弱いせいだ。だから話さえまともに聞いてもらえないのだ。あたたかな日差しの下で自分一人で出したその結論を、ダークチョコは信じて疑わなかった。
 この国で一番強いのは父だ。だから彼が、王だけが常に正しい。自分にもっと力があれば。王より強くなりさえすれば、皆に認められる。そうすれば正しい道を示して、国を救うことが出来る。――そうだ。強くなれと父も常に言っているではないか。ダークチョコが、さらなる力を求めるようになった瞬間だった。
 すぐに城を出て、そのうち国すら飛び出して、力だけを追い求めた。外の世界は思っていたよりもずっと、広かった。厳しい環境に置かれているダークカカオ王国とは、あらゆる意味で違う。リコリス海とは似ても似つかぬ青い海を、しかしダークチョコはろくに見ようともせずに、ただ強くなることだけを考えて突き進んだ。
 そうして手に入れたのは、禁じられた闇の力。けれどその代償はとてつもなく大きかった。
 空が一向に晴れないことに気が付いたのは、王を斬り伏せ、国を追われてしばらく経った頃。片方だけ残された目に映る空は、常に暗い。その事実に、ダークチョコは愕然となる。時に励ますように照らしてくれていた太陽さえ、奪われてしまったのか。
 それでも、この闇の力さえあれば、いつかは――。自分が何を求めているのかすらも、分からなくなっていった。
 もはや、漆黒の闇の中で生きるより他ない。そう諦めるようになってからも、心のどこかでは光を求め続けていた。日差しを浴びたい。たとえ許されないと分かっていても、どうしても望んでしまう。
 そんなダークチョコの闇が晴れたのは、イチゴジャムマジックソードを手放した時。傷つき、ソウルジャムを奪われそうになった父を前にして、初めて剣の意思に逆らった。闇の力すら手放したダークチョコの手に残ったものは、何もない。それなのに胸がすく思いだった。実際には剣を捨てても暗雲は付いてまわったが、体中を包み込んでいた闇を感じなくなったのだ。
 そして同時に手に入れたのは、あたたかな居場所。敵対していたというのに、クッキー王国のもの達はダークチョコのことを、優しく迎え入れてくれた。そこでの生活はこのうえなく幸せだったと、ダークチョコは思っている。
 世界に色がついたように思えたのも、この頃からだ。

* * *

「今日もいい天気ですね!」
 さわやかな朝に相応しい快活な声が辺りに響く。空から目を離してそちらに視線を移せば、にこにこ顔のミルクがすぐ側で立ち止まった。ダークチョコがこうして空を眺めていると、彼は飽きもせずにきらきらとしたその瞳で、同じように空を仰ぎ見るのだ。
「空が晴れていると、何だか心まで晴れやかになってきますね」
「そうだな」
 交わされる会話もたいてい似たような内容だったが、不快ではない。頷く代わりに、ダークチョコも再び顔を上向ける。そうすれば、眩しい光と澄みきった青だけが視界を占めた。
 空模様で気分が変わることは、よく知っている。暗雲が広がる空を見て、一体何度溜息をついたことだろう。それでも今は、朝起きて最初に目にするのがたとえ雨空や曇り空だったとしても、気分が滅入ることは少なかった。
 再び青い空を見られるようになってから、もうすぐ一年になるだろうか。バニラ王国で久しぶりに、本当に久しぶりに見た空は、今でも脳裏に焼きついている。あの時も今と同じように、隣にはミルクがいた。
 彼が取り戻させてくれたのだ。この青空を、太陽を。

* * *

 闇の力を失い、さらには暗黒魔女達とも敵対するようになって、いいこと尽くしとはいかなかったものの、クッキー王国で暮らし始めて、ダークチョコの心は随分と穏やかになっていった。あの剣と決別し、新しく手に取った剣に生じた違和感はなかなか拭えずに苦労したが、常に何かに追われているような、そんな焦燥感はなくなり、驚くほど平穏な日々を過ごせていたように思う。
 けれども、暗い気持ちに呑み込まれそうになってしまう瞬間が、どうしてもあった。
「ダークチョコ様」
 その朗らかな声の持ち主を筆頭に、仲間達が向けてくれる笑みが、眩しくて堪らなかった。屈託のない笑顔を見るたびに思い出したのは、遠い昔に見た青い空に浮かんだ太陽。懐かしいと思う反面、虚しさを覚えてしまう。
 ダークチョコが見上げた空は、一面黒い雲に覆われていた。世界が色づいてもなお暗いままの空に、さらに虚しさが募っていく。陽だまりのようなこの王国には、似つかわしくない黒。そして何よりも、その暗雲が訴えかけてくるように思えてならないのだ。――お前の罪が許されることは、未来永劫ありはしない、と。
 あの頃どうしても苦しくなった時、雨が降ることをただひたすら願っていた。とりわけ激しい雨の中でなら、ダークチョコは泣くことが出来たから。実際に涙したわけではなかったが、そうすれば降りそそぐ雨が悲しみや苦しみを押し流してくれる気がして、少しだけ気持ちが楽になったのだ。
 それでも穏やかな日々を過ごすうちに、暗い気持ちは少しずつ、確実に減っていった。
 だが暗黒魔女を打ち破り世界に平和が訪れると、再びダークチョコの心は掻き乱されていく。きっと明確な目的を失ったことが引き金となったのだろう。
 楽しそうに笑う仲間達の姿を見て、ふと思い浮かべてしまった。彼らの笑みは明るい日差しの下で、さらに輝きを増すのだろう、と――。
 太陽が見たい。そんな願望を、ダークチョコは溜息で掻き消していく。これ以上の幸せを望んではならない。それなのに、その想いは日増しに強まっていく一方だった。
 そんな日々が続いたある日、雨が降った。待ち望んだ激しい雨が、人知れず悲しみを押し流してくれる筈だった。
「ダークチョコ様……?」
 雨のせいでいつもより暗い夜。国外れにあるダークチョコの家の側の鬱蒼とした森の中に、やってきてしまったのはミルクだった。聞き逃してしまいそうな小さな声に振り返ってから、しまったとダークチョコは思った。最初に目についたのは水色の傘。その下から覗く色素の薄い目と視線がかち合った瞬間、こちらを遠目に見ていた彼がハッと息を呑み込んだのが分かったからだ。
 よほどひどい顔をしていたのだろうと、ダークチョコは何だかおかしくなって、口からは乾いた笑いがこぼれ落ちる。
「ダークチョコ様」
 もう一度名前を呼びながら、ミルクが近づいてくる。逃げるように立ち去ることも、情けない顔を隠すことも出来ずに、ダークチョコはただ突っ立っていた。
「……こんな時間に、どうした? 何かあったのか」
 ようやっと絞り出せた声に、ミルクが眉を寄せる。あと一歩近づけば手が届きそうな距離で立ち止まった彼は、まっすぐこちらを見据えた。
「大した用ではなかったんです。ただ、お家にいらっしゃらないようだったので、その……でも、まだ近くにいらっしゃると思って……」
「そうか」
 王国の中心部では天気が崩れていないのだろう。だからダークチョコがこの辺りにいると踏んで、何となく探していた程度だったに違いない。一歩踏み出し、ミルクが傘を差し出してくるが、ダークチョコは首を振って断る。
「風邪をひいてしまいます」
「オレなら平気だ。……お前こそ、もう戻った方がいい」
「でも…っ」
 なおも食い下がろうとするミルクから後ずさり、空を仰いだ。雨の勢いは衰えることを知らない。今のダークチョコにとっては、都合のいい雨の筈だった。だけど本当は、そこにある黒い雲を跳ねのけて、月や星を掴み出したくて堪らなかった。
「今夜はいくつ星が出ていた?」
 何て馬鹿げた質問だろうか。口に出したダークチョコ自身、驚いている。激しい雨音に掻き消されてミルクの耳に入っていないことを願ったが、そううまくはいかないものだ。
「……たくさん。数えきれないほどです」
 馬鹿正直な返答に、ダークチョコは笑っていた。顔を向けると、困ったような表情のミルクと目が合う。途端に、頬を伝う雨粒が何故か熱く感じた。
「オレも、星が見たいな……。月や、太陽も……」
 何かを言いかけた様子のミルクから、さっと目を逸らす。熱いしずくは止めどなく流れ、落ちていく。
「オレに日差しを浴びる資格などない。そう思っていても……太陽が恋しくて、堪らない」
 ダークチョコは再び上を向いて、顔を雨に晒した。そうすれば熱いしずくは雨と混じりあい、それが何だったのかも分からなくなり、この想いも消えてなくなる筈だと思ったのだ。
「この国でお前達と共に生きるだけでも、オレには過ぎた幸せだというのに……何故だろうな。身勝手な想いは強くなる一方で……オレは、本当に、……駄目だな」
 次の瞬間、ダークチョコは勢いよく抱きしめられていた。痛いほどの衝撃で下がった視線が捉えたのは、白。故国の冷たい雪とは違う、あたたかな、白。
 気付いた時には、その白い肩に顔を埋めていた。まわされた腕が冷えきってしまった体を、心を、あたためていく。まるでかつての太陽のようだ。ぎゅっと目をきつく閉じてしまえば、ダークチョコの世界には目からこぼれ落ちる熱と、優しい温もりだけが残される。
「……もしかしたら、呪いを解くことが出来るかもしれません」
 しばらくしてミルクが放った一言に、体が跳ねる。次いで閉じていた目を開いておそるおそる顔を上げてみれば、真剣な眼差しが向けられていた。冗談や気休めではないのは、その目を見れば分かる。ダークチョコは震えようとする口を必死に動かした。
「本当に……? それは、本当なのか…?」
「……ダークチョコ様の身に、危険が及ぶ可能性が高いそうです。もしかしたら……死んでしまうことだって、あるのかもしれません。それでも、あなたが太陽を見たいと言うのなら、僕は――」
 痛みをこらえているかのような表情で話すミルク。彼の向こうに見えた小さな青空に、ダークチョコはどきりとする。その正体は地面に転がっている傘だとすぐに分かったが、一度重ねてしまうと、もうそうとしか思えなくなってしまった。
 とうに失った筈の青い空を、再び掴むことが出来るかもしれない。ダークチョコは手を伸ばす。
 答えはもう、決まっていた。
 ほどなくして、ミルクと共にバニラ王国に向かった。驚くほどトントン拍子に呪いを解くことが出来たのは、あくまでもダークチョコからしてみれば、なのだろう。
 ピュアバニラを始めとする古代英雄達がそのソウルジャムと共に力を貸してくれたことには、気付いていた。ピュアバニラ本人の口から聞いたわけでも、ミルクを問い詰めたわけでもなかったが、ソウルジャムほどの強大な力でもなければ呪いを解くことは不可能だろうと考えていたから。
 だが、まさかあの父が、自分一人の為に生命よりも大切な剣の力を使うなんて――。
 信じられない気持ちは、もちろんある。けれどイチゴジャムマジックソードを捨てたあの日、ほんの少しだけ父の想いを知って、もしかしたら、と思ってしまったのもまた事実だ。
 ダークチョコがクッキー王国で世話になるようになってからは味方同士ではあったものの、一言も言葉を交わしていない。戦場で遠目に姿を見かけるくらいだったが、仲間達の口からその名前が飛び出すたび胸に様々な感情が渦巻いた。おそらく、父もそうだったのだろう。
 だからきっと、呪いを解く際に苦しみを覚えた時父の気配をすぐ近くに感じたのも、気のせいではない。そう思っていても、実際に彼と顔を合わせる勇気を持てるようになるまで、かなりの時間を要した。
「今日は、本当によく晴れてるんですよ!」
 声を弾ませながら、振り返ったミルクが言う。呪いを解いてもらってからも、ダークチョコは丸二日間眠ったままだったらしい。おぼろげながらも苦しかった記憶と共に、体にはまだ気だるさが残っている。
 それでもこうしてミルクに手を引かれて外に向かっているのは、太陽のあたたかさを直接感じたかったからだ。寝室にと借りている部屋からもカーテンを開けば外を見られた筈だったが、閉じられたままだった。おそらくミルクが気を使ってくれたのだろう。
 呪いが解けたことをまるで自分のことのように喜んでいた彼が、大きなドアの前で立ち止まった。ここを出ればすぐ外だ。
「それじゃあ、開けますよ!」
「ああ」
 振り返ったミルクと頷き合う。ゆっくりと、ドアが開かれる。

 ――そして、世界のすべてに色がついた。

 青い空の下、陽光に照らされた何もかもが、美しく輝いている。
 その代償に命を削ってしまったことをミルクの口から聞かされたが、自分でも不思議なほどにダークチョコは落ち着き払っていた。
 バニラ王国からクッキー王国に帰る最中には、世界中を回ってみたいという強い気持ちがもう芽生えていたように思う。あの黒い雲がなくなっただけ。それなのに、行きと同じ道を歩いても驚くほど世界が違って見えたのだ。
 かつては呪われた身で、世界中を放浪していた。けれどどこに行っても暗雲が付き纏い、ダークチョコは暗い世界しか知らなかった。だけど今は、これからは、もう違う。
 久しぶりに戻ったクッキー王国では、皆がダークチョコのことを祝福してくれた。払った代償のことまで言う必要はなかったのかもしれない。だが、いつだって親身になってくれた彼らには、黙っておくことなんて出来なかった。
 命を天秤に掛けてまで太陽を取り戻したダークチョコの選択は、傍から見れば滑稽に映っただろう。それでも彼らは誰一人として笑ったり、哀れんだりすることをしなかった。
 それから二週間ほどが過ぎた、ある昼下がり。人気のない風車小屋の外、ダークチョコが最初に胸のうちを明かしたのは、やはりミルクだった。
 しばらく他愛のない会話を続けていると、何とはなしにといった様子で、彼が空に視線を向ける。続いて空を見上げたダークチョコだったが、白い雲の向こうに隠れたままの太陽はまだ出てくる気配はなかった。
 ダークチョコはミルクに向き直ると、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「残された時間を使って、旅をしようと思っている」
 もしかしたら、彼を悲しませるのではないか。そんな不安もあったが、彼は笑顔さえ浮かべて賛同してくれた。
「お前達には……特にお前には、本当に感謝している。何か、少しでも礼をしたいと思っているのだが……」
 この恩は、どうすれば返せるだろうか。言い淀んだダークチョコに、ミルクは声を上げて笑った。
「僕は何もしてませんよ。ダークチョコ様やピュアバニラ様が頑張っての結果じゃないですか! けど、そうですね。……ひとつだけ、聞いてほしいお願いがあるんです」
 ミルクは笑顔を引っ込めると、ダークチョコをまじまじと見つめながら言う。
「……どうかあなたの旅に、僕も連れていってくださいませんか」
「それは――」
 すんなりと頷くことは出来なかった。ミルクと旅をするのが嫌なわけではない。
 だが今度の旅は、ダークチョコにとって最後の旅となる筈だった。旅の途中、この世界のどこかで寿命が尽きてしまう日が、いずれやってくる。だから共に旅をすれば、彼に自分の最期を看取らせることになってしまうのだ。
 断ろうと口を開くより先に、ミルクが深々と頭を下げる。
「お願いします……!」
「……お前にとっては、つらい旅になるのではないのか。これ以上は、もう」
 呪いを解く方法を口にしたあの時のミルクの表情を、忘れられる筈がなかった。彼を想うなら、ダークチョコは呪いを解くことを諦めなければならなかったのだろう。
 けれどそれは出来なかった。彼は優しい。だからきっと、ダークチョコの命が縮まったことにも、罪悪感を感じてしまっているに違いなかった。
 それもあって、ダークチョコはクッキー王国を離れることを早々に決めたのだ。ミルクに、そしてこの王国の優しいもの達に、自らの死を突きつけてはならない。そう考えて。
 これ以上、身勝手な自分の為などに彼が傷つく必要はないのだ。
「ミルク」
 しかし呼びかけに顔を上げた彼の目を見てしまったら、それ以上何も言えなかった。
「ダークチョコ様……」
 不安げに揺れる瞳が、あの時よりずっと悲しそうに見えてしまったからだ。
「覚悟なら、とっくに出来てます! だから――あなたの旅の終わりを、僕に見届けさせてください」
 まっすぐ向けられる眼差しは、先ほどとは打って変わって強いものとなっていた。
 彼なら自分の死を、悲しまずに受け入れてくれるだろうか。一瞬そう考えたダークチョコだったが、それは違うだろうとすぐに思い直した。ミルクならきっと、ひとしきり悲しんでくれたうえで、それでも乗り越えてくれるに違いない。彼は誰よりも優しく、そして強いのだ。
「分かった。それなら、これからもよろしく頼む。……旅が終わる、その時まで」
 差し出した右手を見て、ミルクの顔に笑顔が戻る。固い握手を交わしていると急に日が差してきて、ミルクは片目を瞑って空を見上げた。
「わっ、眩しいですね!」
 太陽よりも眩しいそれを見て、ダークチョコは表情を崩した。命を懸けてまで呪いを解いたことは間違っていなかったと、強く確信した瞬間だった。

* * *

 大きな月が照らす夜は、明るい。そんなことも忘れ、暗雲がなくとも夜は暗いものだとばかり思い込んでいたダークチョコは、たったそれだけのことにも大きく驚いてしまったものだ。
「何だかすごく楽しそうですね?」
 明るい月夜に動揺している様を紅イモ達にからかわれたことを思い出しているうちに、口の端を持ち上げていたらしい。顔を覗き込んできたミルクが、面白そうに笑う。ただの思い出し笑いだと告げると、それでも彼は楽しそうな表情のまま、隣に腰を下ろして息をつく。
「本当に立派な満月だなあ……。今頃ウェアウルフくんも、楽しめてるといいですね!」
「ああそうだな」

 もう誰も傷つけたくないからと、普段から人を避けているウェアウルフは、特に満月の夜を警戒していたらしい。だがある時、クッキー王国の中心的存在である誰よりも勇敢な心を持つ少年が、彼に言ったという。
「ここは強い人達ばかりだから大丈夫! キミも一緒にお月見を楽しもうよ!」
 そんな馬鹿な、と返したウェアウルフだったが人恋しさが勝ったのか、その誘いに乗ってしまった。そして案の定、本人の意思など関係なく狼の姿に変身してしまったのだ。やがて自我を取り戻した彼は、暴れ回った痕跡が残る周辺を見渡してうなだれた。――しかし。
「何だよお前……結構やるじゃねーか!! もう一回勝負しろよ!」
「うむ! いい運動になった!!」
「ハッハッハ! 確かに手強かったが、私の光の加護のおかげでみんな無事のようだな!」
 周囲で各々好き勝手にまくし立てるもの達に驚いているウェアウルフの元へ、大きな瞳を輝かせたパンケーキとバブルガムまでもが駆け寄ってくる。
「暴れる月ウサギをこーやって抑え込んだの、すっごくかっこよかった!!」
「だよな! 狼になるのも派手で良かったし!! なあなあ、もう一回変身してくれよ〜! 今度はカラフルにして、もっと芸術的にしてやるからさあ!」
 それからウェアウルフが満月の夜を一人で過ごすことはなくなったと、ミルクから聞いていたのだ。ダークチョコがクッキー王国にやってくる、少し前の出来事だった。

 誰も傷つけたくない。だけど一人きりは寂しい――互いに喋るのがうまくないのもあって、実際にウェアウルフと話せたのは数回だけだったが、その気持ちはダークチョコにも痛いほど分かった。だけど彼のその忌々しい力は生まれ持ったもので、強大な力に目が眩み道を踏み外してしまった自分とはわけが違う。
 それでも彼が平穏な日々を過ごせるよう、大きな月に願った。
「ああそうだ! ダークチョコ様に見ていただきたいものがあるんでした!」
 そう言って勢いよく立ち上がったミルクは、ダークチョコの手を掴んでぐいっと引っ張り上げる。彼がわりと強引なのはいつものことだったが、なかなかに痛い。
 眉をひそめながらも、ダークチョコは腕を引かれるまま、木々が生い茂る方へと進んでいく。ちょうど月が浮かんでいる方角だ。今夜の寝床とは反対方向だったが、つい先ほどまで念の為危険はないかと周辺を見回っていた際、この先に何か見つけたのだろう。
「ほら、あれ!」
 木々を抜けた先にあったのは、輝く光の道。ダークチョコはしばしそれに見とれて、我に返ると顔を上げた。そこには先ほどまでと変わらず、大きな丸い月が輝いている。
 下に広がる湖に映り込んだそれが、空にある本物の月に向かってまっすぐ光を伸ばしていて、まるで道のように見えたのだ。引き寄せられるように、湖に近づいていく。
「ここまで綺麗に見られることって、あんまりないんですよね」
 湖岸に立つと、俯いたミルクが呟くように言った。ダークチョコも湖面の月を見下ろしながら、頷く。月の状態だけでなく、風などにも大きく左右されるだろうとは予測がつく。これまでも実際に海や川に映った月を見たことはあるが、こんなふうにくっきりとした光の道を目にしたのは、今日が初めてだった。
 だが今は、そんな細かいことどうだっていい。
「綺麗だな」
 率直な気持ちを口にすると、湖に映ったミルクが満足そうに大きく頷くのが見えた。
「綺麗な満月がふたつも楽しめるなんて、何だかお得ですよね!」
「……情緒の欠片もない言い方だな。だがまあ」
 確かにそうだ、とダークチョコは続ける。星ひとつさえ見ることが叶わなかったかつての自分に、ひとつ分けてやりたいものだと考えてしまう。
 首を振って馬鹿げた考えを振り払うと、改めて湖を見下ろした。透きとおった湖面はまるで鏡のようだ。すっかり頬が緩んでしまった自分の顔も、その隣で笑っているミルクの顔も、はっきりと映り込んでいる。
「今夜の月はふたつどころか、みっつかもしれないな」
 月のようにやわらかい笑みを指して言ったのだが、何故かミルクはぎょっと目を見開いて、こちらに顔を向けた。
「え、僕、最近そんなに太ってきてますか?!」
 思いもよらぬ返答に、ダークチョコも驚いて顔を横に向ける。丸い目で真剣に自分のことを見返してくるミルクに、込み上げてきたのは笑いだった。
「すっ……すまない、そんなつもりは……っ、なかったのだが……ふっ!」
「ダ、ダーク、チョコ様……?」
 俯いても、下に大きな鏡があっては隠しようがない。肩を震わせながら、湖面のミルクに顔を向ける。
「くくっ…、お前がそう言うなら、そういうことにしておいてもいい、ぞ…っ?」
「ええー! それはあんまりですよ! ダークチョコ様〜!」
 情けなく眉尻を下げた顔を見て、ダークチョコはさらに笑った。最近はすっかり表情が緩んできていたとはいえ、こんなにも声を上げて笑ったのは生まれて初めてかもしれない。頭の片隅でそんなことを考えながら、むくれるミルクの隣で笑い続ける。
 ふたつの月が明るい夜に、いつしか湖面を跳ねる笑い声も、ふたつに増えていた。

 翌朝。ダークチョコは寝不足気味ながらも、上機嫌でスープを煮込んだ。材料も乏しく味は今ひとつだったが、ミルクの実にうまそうな食べっぷりを見ていると、何だかこちらまでおいしく思えてきてしまう。
「まだあるぞ。食べるか?」
 皿の中身を早々に空にしたミルクにそう尋ねると、意外なことに彼はうーんと顔をしかめた。
「最近太ってきたみたいだし、どうするか悩みますね〜!」
「まだ根に持ってたのか」
 昨夜のやりとりを思い出し、ダークチョコは苦笑する。しかしすぐにミルクは皿を差し出して「おかわりをください!」と笑いながら言った。本気で根に持っているわけではないらしい。
 ミルクの皿を満たしてから、ダークチョコは空を見上げた。太陽が輝く青い空からは、まるで昨夜の出来事が夢だったかのように、月が姿を消してしまっている。
 食事を終えると、普段どおりすぐに出発の準備に取りかかった。焚き火を消し、周辺を片づけ、いざ出発するといった段階になって、ダークチョコはミルクに告げる。
「少し寄り道をしたい」
 本来の目的地とは異なる方角に体を向けると、それだけでどこへ向かうつもりなのか察したらしい。すぐ隣に並んだミルクが、微笑みかけてくる。
「湖、綺麗でしたもんね!」
「ああ」
 月の光で出来た道はすでに閉ざされてしまっている。だがそれを抜きにしても、綺麗な湖だった。だからもう一度、しっかりとこの目に焼きつけておきたかったのだ。陽光できらめく水面を想像すると歩を進める速度がつい早まってしまい、ミルクにからかわれる。
「湖は逃げませんよ」
 木々の間を通り抜ければ、やはり美しい光景が目に留まり、そこからはゆっくりと前に進んだ。日差しをたっぷりと浴びた湖面がきらきらと輝いている。ダークチョコは岸までは行かず、湖にほど近い木に背中を預けて遠目に眺めることにした。
「本当に綺麗ですね!」
 昨夜と同じように岸まで向かったミルクが、感嘆の声を上げる。しばらく俯いて湖面を覗き込んでいた彼が、こちらを振り返った。太陽とそれを反射する水面が眩しかったが、彼の目はさらに輝いているように見える。
 いばかりの光景を眺めながら、ダークチョコは微笑む。至極幸せな瞬間だった。
 だけどそれにしたって眩しすぎる。そっと目を瞑ってみても、まぶたの裏まで明るい。急に眠気を覚えたのは、昨夜遅くまで月を眺めていたからだろうか。重たくなったまぶたは、簡単には開けられそうにない。
「ダークチョコ様」
 あたたかな声が耳をつく。あまりにも心地好くて、ダークチョコはもう応えることすら出来なかった。
 ふと、目の前に七色の空が浮かんだ。夢だとすぐに分かったが、青空も、黒い空も、赤く染まった空も、白っぽい空も――そのどれもが、今まで実際に目にしてきたものだった。それらを眺めているうちに、不思議と懐かしさが込み上げてくる。
 混じりあった空の向こうに現れたのは強烈な、けれども優しい光。夢の中でなら、それも掴めるだろうか。ダークチョコはおもむろに手を伸ばしてみる。
 手に取った太陽はあたたかい。頭を過ぎったのは、最後に目にした眩しい笑み。その温もりが何よりも愛おしくて、ダークチョコは笑った。

 

 

 

 

 

 木にもたれ掛かったまま目を閉ざしているダークチョコの表情は、やわらかい。光を帯びた黒髪に手を滑らせると、穏やかな風にさらりとなびいた。安心して、ただ眠っているようにも見える。
 おやすみなさい――そう声を掛けようとしたミルクだったが、やんわりと頭を振った。彼との別れの挨拶には、何となく相応しくないような気がしたからだ。
 振り返れば、彼が最後まで見ていた光景が変わらず広がっている。太陽も、それを映す湖も、光り輝いていた。湖面の光は昨夜見た月光の道のように長く伸びてはいなかったが、もしかすると、彼はあの光の先へと向かったのかもしれない。何となくそんなふうに思った。彼はまた、旅へ出たのだ。
「ダークチョコ様」
 片膝をついて、しっかりとダークチョコの顔を覗き込む。返事はない。返ってはこない。けれど微笑んだままの彼は、とても幸せそうに見える。
 その顔を見続けても、不思議と寂しさは湧いてこなかった。単にまだ彼がいなくなってしまった実感が、湧いてこないだけかもしれない。それでも笑顔でダークチョコを見送れることを、ミルクは心から嬉しく思った。
 これからは一人でも、ずっと先へと進んでいける筈だ。
「行ってらっしゃい。――僕も、行ってきますね!」
 背中を優しく撫でていった風にわれるように、ミルクは振り返った。湖岸に舞い降りてきた小鳥が鳴き声を上げる。美しいさえずりは、まるで二人の新たな旅立ちを祝福しているかのようだった。
(by sakae)


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