※無断転載・AI学習を固く禁じます。
❀四日目
どんよりとした、暗い一日だった。目覚めた時にはすでに降り始めていた雨が、すべての授業を終えた今も降り続いている。
だけど、晴れないのは空だけじゃない。今日の僕は全然ダメだったと自覚している。いや、怜士先輩に愛想を尽かされてから、ずっとだ。昨日は寄り道したあと行く予定だった塾にも行かず、今日は今日でなかなかベッドから起き上がることが出来ずに登校するのが遅くなってしまった。
「大丈夫なのか? 今日、全然元気ないじゃんか!」
「……すみません」
「アタイに謝るようなことじゃないだろ?」
放課後になってしばらく経つのに帰り支度もせず、自分の席でぼんやりとしていた僕の顔を覗き込んできたのは、僕の友人であり、このクラスの委員長をしている女の子だ。ぐいぐい人を引っ張っていくタイプの彼女は人一倍責任感が強く、よくクラスのみんなのことを気に掛けてくれる。今だって、僕のことを本気で心配してくれているのはひしひしと感じてくるのに、どうしても気力が湧いてこない。
「何かあったのか?」
もう一度、彼女が優しい声を掛けてくれた時だった。教室の後ろの方に集まって談笑していた女子グループの一人が、あの学園の名前を話題に出したのだ。
「ねえねえ知ってる? 昨日キングダム学園でさあ――」
俯いていた僕は思わず顔を上げ、耳をそばだてる。けれど彼女達の口から出てくるのはきらびやかな生徒会長のことばかりで、あの人に関する話は一向に出てくる気配がない。落胆したような、ほっとしたような、複雑な気持ちだった。
「おいお前! 昨日、キングダム学園に行ったらしいな」
バンッと僕の机に勢いよく手をついたのは、隣のクラスの友人だった。割り込まれて怒った委員長と言い合いを始めた彼に、僕は視線を向ける。どうして知っているんだろう。
彼にはキングダム学園に行ったことを話していなかった。それどころか、まだ怜士先輩の話もしていない。最近のあれこれを聞いてもらいたい気持ちはあったものの、話してしまえばあの人にケンカを売りに行ってしまうんじゃないかという不安があったのだ。あの不良はものすごく強いらしいと、以前から怜士先輩に興味を示していたから。
僕の視線に気付いた彼は、ふんと鼻を鳴らして僕のことを見下ろした。
「オレのクラスの女が、昨日お前がキングダム学園から出てくるのを見たっつってたんだよ。がっくり肩落としてな!」
「……」
「お前、まさか例の超不良にでも目を付けられて――」
「んん、昨日っていやあ例のデザートデーじゃなかったか? あ! ……ひょっとして」
彼を押しのけるようにして、委員長がずいっと顔を寄せてくる。だけど彼女は、今度は言いにくそうに声を潜めた。
「お目当ての子にお菓子を貰えなかった、とか…?」
「は、デザートデー? お菓子ぃ? 何だそりゃ! よく分かんねーけど、フラれちまったのかよお前。ああ。それで今日は妙に静かだったのか……」
いつもは勝気な友人達の視線が、僕を気遣うようなそれに変わる。……これはこれで、つらいな。でも、どっちの話も完全に間違いとは言えない。怜士先輩にある意味で目を付けたのは僕の方だけど、昨日完全に嫌われてしまったのだ。一体、何がいけなかったんだろう。
僕は悶々とした気持ちのまま、学校を出た。心配した友人達がついてきてくれようとしたものの、断った。今日は早めに塾へ行って、自習室で勉強するつもりだったから。勉強に集中してしまえば悲しいのも寂しいのも気にならなくなるだろうと、そう考えたのだ。
それなのに、気付けばキングダム学園の近くまで来てしまっていた。
きっと怜士先輩は、僕のことを歓迎してくれないだろう。それどころか、もっと怒らせてしまうかもしれない。そんな考えとは裏腹に、僕の足は勝手に学園の方へと向かう。地面に落ちている桜の花びらが雨と泥に塗れていて、余計に暗い気持ちになりそうだった。
ダメだ、帰らないと。正門の近くまで来て、やっと我に返る。慌てて踵を返そうとしたところで、正門から数人の生徒が出てくるのが見えた。何か急いでいるような、焦っているような、そんな雰囲気だ。
「あれ、ヤバいでしょ」
「下手すりゃ警察沙汰だろうな。何であんなおっかないやつが、同じ学園にいるんだか……」
早口でまくし立てるように話しているのは、間違いない。あの人のことだ。そう気付いた時には僕は差していた傘を捨て、走り出していた。
正門から入るのは初めてだったけど、彼がいる場所はすぐに分かった。昨日や一昨日と同じように、裏庭の方で間違いない。その辺りで大きな騒ぎが起こっている。怪訝そうに僕のことを見遣る生徒達や、校庭の桜並木にも目もくれず、僕はひたすら走った。
たどり着いた裏庭は、いかにも不良といった見た目の人達でいっぱいだった。彼らは皆一様に同じ方を向いている。その先に、彼はいた。
「怜士先輩!」
僕の声は、多分届かなかったと思う。彼は正面から殴りかかってきた不良の胸ぐらを長い腕で掴むと、その仲間達に向けて思いきり突き飛ばし、数人を一気に倒した。
彼は一人だった。ここにはこんなにもたくさん人がいるのに、誰一人として彼の味方はいない。ボロボロだった。避けきれなかった蹴りによろめく怜士先輩を見て、勝てると思ったのだろう。不良達は一斉に飛びかかった。たった一人。それでも彼は、誰にも負けなかった。コテンパンに打ちのめされたのは不良達の方だ。
一人きりで立ち向かう彼の姿は、初めて出会った時と同じように勇ましくて、綺麗で――だけど、とても悲しげに見えた。
「オレを倒す覚悟があるやつは…かかってこい!」
怜士先輩が高らかに言い放つと、どよめきが起こった。彼には敵わないと、そう思い知ったに違いない。僕は後ずさる不良達を掻き分け、彼の元まで進もうとする。その時だった。長身の長い黒髪の男が、怜士先輩に歩み寄る。
「怜士、親に逆らうのはもうやめろ」
聞こえてくる会話からして、その人は怜士先輩の父親のようだ。それなのに場の空気は、さっきよりずっと重苦しい。
「お前の姿を見ろ、怜士。今のお前を認めろというのか?」
親子の言い合いに赤の他人が割って入るべきではない。そう考えたものの、無理だった。悔しそうに俯く怜士先輩を、これ以上黙って見ておくことなんて出来なかった。
「いくら父親だからって、それ以上怜士先輩のことを悪く言うのは、僕が許しません!」
「?! お前、何でここに……!」
驚きの声を上げる怜士先輩を背に、僕は彼の父親を睨みつけた。怜士先輩によく似た顔立ちのその人も、驚いたような表情をしている。
「僕には、彼が好んでケンカをしているようには見えませんよ。――早く手当てしないと。さあ行きましょう」
「お、おい……!」
怜士先輩の腕を掴んだ。戸惑う彼を促し、校舎の方に向かう。意外にも、誰かが追ってくることはなかった。
「…………」
校舎に入る直前振り返ってみると、怜士先輩の父親はじっとこっちを見ていた。遠目に映るその姿は、どこか寂しそうで。怜士先輩もそんな目を父親に向けていた。
怜士先輩に聞きながら向かった保健室は、タイミングが悪かったのか先生が不在だった。放課後だからか、他の生徒の姿もない。呼びに行くのも勝手が分からないし、とりあえず手持ちの救急セットで応急処置をする。傘は置いてきてしまったけど、鞄はちゃんと持ったままで助かった。
当然ながら怜士先輩の体は、先日より傷が増えている。本当なら病院に行った方がいいんだけど、多分行かないだろうな。友人もこういう時、なかなか行ってくれないから。
「……父さんに渡すつもりだったんだ」
「え?」
突然話し始めた怜士先輩に、彼の体に包帯を巻きつけていた手が止まる。椅子に座った彼は、困惑している僕を見上げて続けた。
「昨日のチョコのことだ。お前、知りたがってただろう」
「……! すみません、そうとは知らずに、僕っ…!」
ムキになって、無理やり食べてしまった。慌てて謝ると、怜士先輩はやんわり頭を振る。
「お前が謝るな、食っていいと言ったのはオレだ。……本当は、捨てようかと思ってたんだ」
どうして、と言いかけて僕は口を噤む。さっきの様子からして、良好な親子関係を築いているとは思いにくい。僕が考えていることが伝わったらしく、怜士先輩は弱々しく笑いながら頷いた。
「見てのとおりだ。それなのにオレは、あの人に認めてもらおうと……愛されようと……。だけど結局、あれを渡す度胸すらなかった」
「……」
「こんなオレが強いと恐れられているなんて、馬鹿げた話だと思わないか?」
僕は再び手を動かし、怜士先輩に包帯を巻いていく。きっとこの体に残っている傷より、見えない傷の方がずっと多いんだろう。誰にも治療してもらえず、放っておかれたままの傷が。包帯を巻き終えると、僕は怜士先輩をそっと抱きしめた。なるべく負担をかけないよう、包み込むように。やがて囁くような小さな声で彼が言った。
「……お前はもう、この学園には来ないと思っていた」
「僕も。あなたに嫌われたんじゃないかって……こうしてまたお話が出来るだなんて思ってなかったです」
少しだけ体を離し、怜士先輩の顔を覗き込む。すると彼は、困ったような顔で僕の目を見つめ返してきた。
「昨日お前が、あまりにも苦しそうにチョコを食うもんだから。……オレにその気はなくともお前を怯えさせて、嫌いなものを強要してしまったんじゃないかと」
ああ、それでもう僕が近づかないよう、冷たく突き放すような態度をとったのか。納得すると同時に、自分が恥ずかしくなってくる。
「違うんです。僕は別にチョコが嫌いなんじゃなくって――」
「あら?」
ガラガラと音を立てて開かれたドアから入ってきたのは白衣を羽織った女の人で、おそらく保健の先生だろう。僕は怜士先輩から体を離すと、あとは先生に任せることにした。部外者の僕がいつまでも居座っていては、迷惑だろうから。
「明日また来ます。出来たら、ちゃんと病院で診てもらってくださいね」
驚いた様子の先生の横をすり抜け、保健室を出たところで振り返る。怜士先輩は頷きもしなかったけれど、まっすぐ僕を見ていた。
(by sakae)
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