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――ああイライラする。カツカツと廊下に響く自分の足音すら耳障りだった。
まさかこのボクが、雑魚相手に手傷を負わされるなんて。まあ傷といっても、そんなに大したものではなかったけど。それでも、腹立たしいことに変わりはない。
けど、それ以上にイラついたのは、同行していたあの馬鹿だ。
――シンクも案外ドジですねぇ。見なさい! この美しい私の肌には、傷ひとつ付いてなどいませんよ……! ふがっ!?
ムカついたからその美しい肌(ちなみに顔だ)とやらに傷を付けてやったけど、あのうざったい声が癪に触り、苛立ちが倍増してしまっていた。
思い出すと余計に腹が立つ。そんなボクの耳に、バタバタと誰かが走ってくる音が入ってくる。うるさいな。そんなに急いで何なのさ。半ば八つ当たりで前方を睨みつける。
「シンクっ!」
ぶつかってしまいそうな勢いでやってきたのは、アリエッタだった。目の前で立ち止まった彼女は、すっかり息を切らしてしまっている。
「何か用?」
肩で息を繰り返しながらも、アリエッタが顔を上げた。不機嫌を隠そうともしないボクの態度に驚いたのか、今にも泣き出しそうに瞳が潤んでいる。
「……てた、です」
「?」
アリエッタが僅かに口を動かした。小さく開かれたくちびるから漏れ出たのは、やはり小さな声で。聞き取れなかったことに、むしゃくしゃしてしまう。
もう一度彼女が喋り出すのを待ってみる。だけどアリエッタは俯くと、そのまま口を噤んでしまった。
一体何なのさ。言いたいことがあるならハッキリ言ってよね。
「アリエ――」
促そうと口を開いた瞬間、アリエッタにぐっと体を押しつけられた――抱きつかれた、という方が正しいかもしれない。
「何、を……」
息が詰まる。苦しい。
きっとアリエッタが、ボクの胸に顔を押し当てているから苦しいんだ。……理由なんて、それしか考えられないじゃないか。それしか、ない。
そうやって一人納得していると、ボクに抱きついたまま震えていたアリエッタが顔を上げた。
すると、彼女は泣いていた。その頬を伝って次から次へと落ちる涙が、ボクの服を濡らしていく。
どうして。圧迫から解放されたというのに、どうしてまだ胸が苦しいんだろう。不思議で堪らない。
「シンクの馬鹿っ!」
「……っ」
ぎゅっと腕を握られた。痛い。アリエッタは泣いてるくせに、怒ってるようだった。
「アリエッタ、アリエッタっ……シンクのこと、いっぱい心配した、のに……!」
彼女がキッと上目遣いで睨んでくる。泣いてるし、あんまり迫力はないけど。……それにしたって。
「何でボクが馬鹿になるのさ」
相変わらず言葉が足りないアリエッタに呆れて、溜息をつく。吐き出したのは息だけではなかったみたいだ。すっかり苛立ちも治まっていた。
「だってシンク、大ケガしたって……」
大怪我? ……ああ、ディストだな。ねちっこい奴のことだ。ボクが傷を負ったことを、大袈裟にして言いふらしたに違いない。あとでぶっ飛ばしておかないとね。
とにかく。大怪我した筈のボクが元気そうで、心配損をしたってことでアリエッタは怒ってるんだろう。
そう考えると、何故か残念だと思ってしまうボクがいる。……今日のボクは、何だかおかしい。怪我なんかしたせいだ。
「見てのとおり大したことないよ。任務に支障もないし」
「……ほんと?」
大きく頷けば、アリエッタはボクの腕を掴んだままの手の力を緩めて、それから――。
「良かった、です」
ふわりと笑ったのを見た瞬間、ボクの心臓が跳ねた……気がする。
「どうして」
――どうして、そんな嬉しそうに笑うわけ?
理由を聞きたかった筈なのに、言葉は途中で途切れてしまう。それでもアリエッタは、察してくれたように続けた。
「シンクが大きいケガをしたら、アリエッタは悲しいから……。だから、良かったです」
「……そう」
途端に胸の奥があたたかくなる。
ああ、ボクはいつからこんなに単純になってしまったんだろう。ディストじゃあるまいし、こんなことが嬉しいだなんて、本当に馬鹿みたいじゃないか。
「シンク?」
「な、何?」
気付けばアリエッタが不思議そうにボクを見上げていて、ハッとなる。
「ケガ、どこ? アリエッタが、手当てしてあげます!」
知らないうちに何か妙なことでも口走ってしまったんじゃないかと考えたけど、それこそ心配損だったようだ。
手当てか。そういえば、応急処置しかしてないな。……というか。
「ボクが怪我したのは……アンタがさっきからずっと掴んでる、この腕だけど」
「――え?」
言いながら左腕を少し持ち上げる。すると一緒についてくる、小さな手。
ぽかんと口を開きっぱなしにしたアリエッタの視線の先には、服の隙間から覗く包帯がある筈だ。
「ご、ごめんなさい……! アリエッタ、わざとじゃ……!」
慌てて手を離したアリエッタはギュッと目を閉じ、わなわなとくちびるを震わせる。多分、ボクが怒り出すとでも思ってるんだろう。
まあ確かに少し痛かったけど、別に怒るつもりなんてない。
「別にいいよ。――ああ、でも」
「……?」
やわらかな頬をひとつだけ流れた涙を指先で拭い取ってやると、アリエッタがゆっくり目を開ける。
「もし悪化しちゃってたら、ちゃんと完治するまでアンタが面倒見てよね?」
「! ……はい!」
笑顔で頷くアリエッタを見て、大怪我しても良かったんじゃないかって……そんな浅はかな考えが頭を過ぎった。
本当に馬鹿馬鹿しい。――けど今だけなら、馬鹿になってもいいかもしれない。そう思ってしまった。
(by sakae)
END
(08-01-25初出)
「loca」様よりお題をお借りして書いたお話でした。
「あいうえお44題/と:とてもとても幸せな」
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