知ること 学ぶこと

※無断転載・AI学習を固く禁じます。
 ああ、これは知らないことだ。本を開いたまま、メモを取る。
 本日の導師としての役目を果たしてすぐ、図書室から分厚い本を数冊借りてきて、僕は机に向かっていた。今日は書類に意味が分からない単語が出てきて困ってしまったから、明日からはそんなことがないよう気を付けないと。
 ページを捲り、ひととおり目を通してからノートに書き写していく。何度もそれを繰り返しているうちに、違和感を覚えた。
「あれ?」
 気付けば部屋の中が明るくなっていた。とっくに夜は明けきってしまったらしい。どうりで眠たいわけだ。
 だけどすぐにまた仕事が始まるから、起きておかなければ。
 必死に欠伸を噛み殺していると、コンコンと少し強めにドアが鳴らされた。元気のいいこのノックは、僕はよく知っている。彼女に間違いない。
 そんな確信があったから、本とノートを閉じてドアに顔を向ける。
「どうぞ。開いてますよ」
 部屋に入ってきたのは、想像どおりアニスだった。彼女は導師守護役の一人で、彼女と行動を共にするようになってから、もう二ヶ月ほどになるだろうか。明るくて、活発な少女。それがアニスだ。
 だけど彼女の顔にはいつもの元気な笑顔はなく、何故か疲れたような、暗いような……とにかく微妙な表情をしている。何かあったのかもしれない。僕は気になって、訊ねる。
「アニス、どうしました? 何かあったんですか」
 つかつかと無言で近寄ってきたアニスが、バッと顔を上げた。
「何かあったんですか――じゃあないですよう! イオン様!」
「はい?」
「戸締まりはちゃんとしといてくださいねって、いつも言ってるじゃないですかぁ! 用心してくださいねって、昨日も一昨日もその前の日もず~っと言ってますよね!? なのに開いてますよ、だなんて……ああもう! ダメダメですよう!」
 アニスは入ってきたばかりのドアを一度振り返って、一気にまくし立てた。肩にある不思議な人形が、彼女の動きに合わせて揺れる。
 ああそうか、アニスは怒っていたのか。
 納得していると、「聞いてるんですかあっ」とアニスが目を吊り上げる。いけない、また怒らせてしまった。
「すみません。ちゃんと聞いていますよ」
 慌てて謝り、椅子を動かしてアニスに体を向ける。
「ですが、ここには一部の者しか入ってこられないから、安全でしょう?」
 僕の部屋に来るには、特殊な転移の譜陣を通らなければならない。そしてその譜陣を発動させる呪文は、教団のごく一部の幹部しか知らない筈だった。それに見張りの者もいるから、簡単には入ってこられないようになっている。
「それはまあ、そうなんですけど……。何かイオン様って、危なっかしいんですよね~」
「危なっかしい、ですか……」
 一体僕のどんなところが、危なっかしいというんだろう。首を捻って考える。――やはり、まだまだ知識が足りていないからだろうか。
 僕は〝人〟として、最低限の知識は持ち合わせている筈だ。知らないことがあれば、出来る限り本を読んだりして調べているつもりなのだけれど、それでもまだ分からないことがたくさんある。
「はい。だってイオン様ってよくぼんやりしてるし、すっごいお人好しだし。見てると心配になっちゃうんですよね~」
 心配――つまりは不安になるということだ。
「そうか、僕はあなたに不安を与えてしまっていたんですね。……申し訳ないことをしました」
「……? はぅあ?! イオン様ぁ!? 何やってるんですかぁっ!!」
 深々と頭を下げると、アニスが慌てたようにしゃがんで僕の顔を覗き込んでくる。
「顔を上げてください~! 別に頭を下げるほどのことしてませんからっ! っていうか、謝る必要なんてないじゃないですか!!」
「いえ。僕はアニスを不安にさせてしまいましたから」
「不安って……大袈裟過ぎですようっ。と、とにかく顔を上げてくださいってば~」
 今度は困らせてしまっていることに気付いて、言われたとおりに顔を上げる。続いて立ち上がったアニスは、大きな溜息を吐き出した。
 これ以上、迷惑をかけないようにしなければ。そう心に誓っているうちに頭上に降ってくる「あれ?」という、不思議そうな声。アニスが僕の背中越しに机を見て、首を傾けている。
「イオン様、こんな時間から勉強してたんですか?」
「ええ、まあ。……いつもより少し早く目が覚めてしまったので」
 夜からずっと机に向かっていたと正直に告げれば、きっとまた心配を掛けさせてしまうだろう。そう思ったから頷いたのに、アニスの表情は晴れない。
 じっと僕の目を覗き込んでくる。
「……むむ、よく見たら目が赤い。――もしかして、ずっと起きてたんじゃあ」
「そんなこと、は」
 じとりと睨むように見つめられ、慌てて否定しようとしたものの、こんな時にうってつけのセリフなんて浮かんではこなかった。口ごもる僕を、ますます訝しそうな顔で見ているアニス。
「イオン様ぁ~?」
 駄目だ。見抜かれてしまっている。
 観念して後ろ手にノートを取ると、アニスにも見えるように最後に書いたところまでぱらぱらとページを捲っていく。それだけで彼女は理解したようだった。
「んも~! イオン様はお体が弱いんですから、徹夜なんかしてたら倒れちゃいますよう!」
「すみません。でも、どうしても調べたいことがあって」
 さっき写し終えたばかりの文章を、指先でなぞる。――これも早く覚えないと。
「調べものですかぁ。……そういえばイオン様って、よく勉強してますよね~。暇さえあれば図書室にこもっちゃうし。熱心ですね!」
「いえ。僕はただ……知らないことが多過ぎるから」
 そう言うと、何故かアニスは疲れたように(呆れているのかもしれない)細く息をつく。顔を上げてみれば、やはり彼女は困ったような顔をしていた。
「……イオン様って、何か、すっごい必死ですよね」
「え?」
「必死……う~ん。何ていうか、いつでもフル稼働っぽいっていうか」
「ふるかどう?」
 耳慣れない言葉だ。困ってアニスを見つめていると、彼女は僕でも分かる言葉で言い直してくれた。
「全力で……常に百パーセントの力で動いてるってことですよ」
「全力? 僕が?」
 そんなことはないと、ぶんぶんと首を横に振る。
 全力。百パーセント。確かに今の僕に出来ることは、すべてやっているつもりではある。けれど、まだまだ足りない。完璧にはほど遠い。
「でも、ものすご~く一生懸命なの、見てても分かっちゃいます」
 一生懸命。言葉の意味は知っている、だけど、僕がそうなのかはよく分からない。それに――。
「あの、アニス」
「はい?」
「〝全力〟や〝一生懸命〟って、いけないことなんでしょうか?」
「……え?」
 僕の言葉にアニスはぱちくりと丸い目を何度も瞬かせて、首を傾げる。
「え、え~っと? どうしてそんな話になっちゃったんですかあ?」
「アニスは僕のことを熱心だと、一生懸命だと言ってくれましたが……その、あまりいい表情には見えなくで」
 〝熱心〟も〝全力〟も、〝一生懸命〟も――〝ふるかどう〟は、まだよく分からないけれど――どれも、いい意味の言葉だとばかり思っていた。
 でもさっきのアニスの表情を見て、もしかしたらそれは違っていたのかもしれないと思ったのだ。――だって、彼女は困ったような顔をしていたから。
 僕の言葉の意味を飲み込んだらしいアニスが、あたふたと両手を振った。
「ち、違います、別に悪いことじゃないですって! 頑張るのはいいことだしっ。……ただ」
 アニスは一度そこで黙り込み、無意識にノートの文字をなぞり続けていた僕の手を、そっと包み込むように両手で握った。僕より小さいけれど、あたたかい手だ。
「ずっと全力で頑張り続けるのって、疲れちゃうと思うんですよね。……今だってイオン様、すごく疲れてるように見えちゃうんです」
 アニスはそう言って、目を伏せる。また僕のことを心配してくれているのだろう。それは分かったけれど、僕は笑って答える。
「僕なら平気です。それよりも、僕が無知だと困るでしょう? ……昨日だって、あなたを困らせてしまいました」
 僕は知らなくてはならない。もっともっと。たくさんのことを。
「そんなことありませんっ! そりゃあ正直、少~し世間知らずかなって思う時もちょっぴりありますけど、そんな焦らなくたっていいじゃないですか!」
「そんなわけにはいきません。僕は――導師ですから」
 そう、僕は『導師イオン』だ。
 人々の役に立たなければならないのに、知らないことばかりだと、それすらままならない。知らないことを、なくしていかなければならないのだ。
 それなのに、世界にはたくさんの知らないことが溢れている。分からないことだらけだ。
 僕は導師として相応しい生き方をしなければならないのに。このままだといけないのに――。
「どれどれ~」
 違和感を感じた時には、すでに僕の手を握っていた筈のアニスの手の中にノートがあった。
「アニス?」
 僕が書いた文字を目で追っているらしいアニスは、ふむふむとしきりに頷いてはページを捲る。
「へ~。この言葉、そんな意味もあったんだあ! アニスちゃん、新発見!」
「あ、あの」
「ほほう、こんな出来事があったのか~。なるほどなるほど」
 ……困った。こういう時はどうすればいいんだろうか。なおも僕のノートを読みふけっているアニスに、ただ視線を向けるしかない。
 しばらくして、彼女はようやくノートを閉じて僕を見た。
「知らないことばかりでした。……ショックです」
「――え?」
 ううっと急に呻くような声を上げたかと思ったら、アニスはノートを抱きしめるようにして床にうずくまってしまった。僕はぎょっとなる。
「アニス……!?」
 泣いているんだろうか、どうしよう。咄嗟に彼女の前にしゃがみ込んだものの、どうすればいいのか分からなくて、小さな肩に手を置き声を掛け続けるしかなかった。
 泣いているということは、悲しんでいるということだ。きっと、僕が彼女を悲しませてしまったんだろう。そう思うと、彼女の肩にある人形まで悲しんでいるように見えてくる。
「アニス、どうしたんです。僕が、あなたを傷つけるようなことを言ってしまったんでしょうか? アニス、アニス……」
「うっうっ、イオン様ぁ」
 何度か呼んでいるうちに、アニスがほんの少しだけ顔を上げてくれた。だけど前髪に隠れて、表情が見えない。
「私って、めちゃくちゃ馬鹿な女だったんですね……。導師守護役失格です」
「何を言っているんですか、アニスは馬鹿なんかじゃありませんよ……!」
 必死に宥めようとしても、アニスは嫌がるようにを振る。
「でもでも! このノートの中だけでも、知らないことがたくさんありました。……それって、私が馬鹿だってことですよね?」
「そんなの……これから知っていけばいいだけじゃないですか。さあ、顔を上げてください」
「……これから?」
 アニスが上目遣いで僕を見る。
「そう、これからです。僕と一緒に頑張りましょう!」
 一瞬アニスは頷きかけたものの、「でも」と不安そうに俯く。
「私、イオン様みたいに一気に覚えられる自信、ないですよぅ……」
「だったら、ゆっくりでもいいじゃないですか。急ぐ必要なんてないんです。少しずつ学んでいけば――」
 自分の言葉にハッとなる。少しずつ学んでいけばいい――僕は今、確かにそう言おうとした。さっきまでの自分とは矛盾した言動だ。
 戸惑っていると、アニスが勢いよく顔を上げた。その顔は涙に濡れているに違いないと思っていたのに、何故か彼女はにんまりと笑みを浮かべている。あれ?
「アニ、ス……?」
「そうですよね~急ぐ必要なんてありませんよねぇ。さっすがイオン様、いいこと言ってくれますっ!」
 パンパンと肩を叩かれる。いつもどおりの元気な声はしっかりと耳に入ってきているのに、思考が追いつかない。アニスが話し続けているのを、必死に聞いていた。
「今日明日にでも知らないと生きていけないようなものなんて、そうそうありませんよ。そりゃあ、私とイオン様だと立場が違うから、まったく一緒とは言えないですけど……それでも、無理して一気に詰め込む必要なんてないです」
 そう言いながら、アニスは僕の手にノートを持たせてきた。つい頷きそうになったのを、ぐっと堪える。確かに最低限の知識は持ってはいる。生きていけないわけじゃない。でも――。
「昨日みたいに、あなたに迷惑を」
「分からないことがあったら、その場で訊いちゃえばいいんですよー! それぐらいで迷惑だなんて言うのは、よっぽど心の狭い奴だけですって。心の広~いアニスちゃんで良ければ、いつでも訊いてくださいねっ!」
 僕の言葉を遮ってしまったその声が、迷いまで断ち切ってくれそうな勢いを持っているように感じるから、不思議だ。
「だからイオン様。もう無理はしないでください」
 優しく微笑まれ手を差し出されてしまっては、その手を振り切ることなんて僕には出来なくて。
「……分かりました」
 その手を取った時には、自分でも気付かないうちに笑ってしまっていた。
 ――アニス、あなたは僕が気付かないことを気付かせてくれる。優しい人だ。
「ああぁ~!!」
 同じように笑っていたアニスが、突然大きな声を上げる。
「ど、どうしたんです!」
 驚きに後ずさりそうになる僕の腕を、アニスは離さない。それどころか、ぐいぐい引っ張って立ち上がらせようとしてくる。
「大変! イオン様、呑気に笑ってる場合じゃあないですよ~! 仕事です、仕事!」
「あ……」
 壁時計に目を向けてみると、いつもなら、もう書類に取り掛かり始めているような時間になっていた。これは多分、いや、間違いなく遅刻というものだ。
「支度は済んでますよね? よ~し急げ急げ~!」
「はい!」
 気合いを入れたアニスに腕を掴まれるまま、僕は部屋を出る。
 そうか、こういう時は焦らなくてはいけないのか。そう考えながら自分より小さな背中を見ていると、アニスが振り返った。
「あ、でも具合が悪くなった時は、ちゃんと言わなきゃダメですからね!」
「ええ、分かりました」
 僕の返事に満足げに頷いた彼女は、前を向くと小走りで先を進んでいく。
 ころころと表情が変わる、楽しい人だな。思わず吹き出してしまうと、再びアニスが振り返る。不思議そうな顔をしている。
「ふふ、何でもありませんよ。さあアニス、行きましょうか」
「はい! アニスちゃんがしっかりばっちりお連れしますからね!」
 笑いかければ、アニスも笑って応えてくれる。そのことが、とても嬉しい。
 彼女と過ごしていると、僕は自然と笑うことが出来る。明るい気持ちにさせてくれるから。
 でもそれは、どうしてなんだろう。彼女と他の人と一体どう違うのか、考えてみてもよく分からない。アニスがとびきり明るいからだろうか?
 本人なら、その理由を知っているかもしれない。そんなことを考えつつ彼女の後ろ姿をじっと見つめていると、やっぱり楽しい気持ちになってくる。――そうだ。
 執務室へと急ぎながらも、はたと僕は気付く。さっき彼女が言っていたじゃないか。分からない時は、直接訊いてみればいいんだ。
(by sakae)


END
(08-05-06初出)

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