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ざあざあと、広い屋敷に満ちているのは雨の音。朝から降り続けている雨は、昼を過ぎた頃から激しさを増していた。屋敷の中から眺めているだけでも、うんざりしてしまうほどの悪天候。
そんな中、庭で傘も差さずに動き回る人影。一体何をしているんだろう。怪訝に思い、俺は足を止めていた。
「――ルーク様!」
その赤毛が目についた瞬間、目眩を覚えた。何であんな所にいるんだ、さっき部屋に様子を見に行った時には寝てたじゃないか!
雨のせいで俺の声が聞こえないのか、呼びかけてもこちらを振り向きもせず、ルークはふらふらと歩き続けている。
「おい、ルーク!」
何やってるんだ、あの馬鹿! 気付けば声を荒らげていた。それでもルークは振り向かない。
もう一度呼ぼうとしたところでハッとなり、慌てて周囲を見回した。いくら本人が分かっていないとしても、一世話係が仕えるべき主君に怒鳴りつけるなんて、許されないことだ。幸い近くに誰かがいる気配はなかったが、用心するに越したことはないだろう。俺は大声を出すのはやめて、傘を手に雨が降りしきる庭へと急いだ。
庭に出た途端、風に煽られた雨粒が頬を打ってくる。生ぬるい、嫌な雨だった。
「ガイ!」
大分近づいたところでようやく俺の存在に気付いたらしいルークが、嬉しそうに駆け寄ってくる。あーあ、すっかりずぶ濡れじゃないか。
以前の――記憶を失う前のルークの性格からは、到底想像出来ない有様だった。そもそも以前のこいつなら、雨の中はしゃぎ回るなんてこと自体が有り得なかっただろう。
「……早くお部屋に戻りましょう、ルーク様」
溢れ出しそうになる溜息をどうにか堪えて、必要なことだけを告げる。どうせ今のこいつに小言を言ったって、理解なんて出来やしないのだ。簡単な言葉を理解出来るようになったのも、つい最近のことだった。それでも自分が今置かれている状況はそれなりに理解しているようで、最初はきょとんとした表情をしていたルークは頭上に傘を差し出すと、逃げるように後ずさった。もしかしたら単に遊んでいるつもりなのかもしれないが。
「ルーク様」
あとで怒られる俺の身にもなってみろ。そんな苛立ちを含んだ呼びかけに、またしても逃れようとしたルークは後ろにあった水たまりに足を取られ、尻餅をついた。跳ねた水が俺のズボンにまで飛んでくる。
ああもう。ついやってしまった舌打ちは、ルークの耳に届いてしまっただろうか。……まあ別に、聞こえていたところで問題ない。舌打ちの意味なんて、どうせ分かりやしないんだ。
会話するだけ時間の無駄だった。水たまりから引っ張り上げようと、びしょ濡れの腕を掴む。不思議そうに見上げてくるルークの体は、案外重たい。こんなふうになってしまったとはいえ、実際には俺と四つしか変わらないのだから当然か。せめて自分から立ち上がろうとしてくれれば楽になるのに、ぼんやりとした表情で俺を見つめ返してくるだけだった。
仕方がない。風のせいもあって俺もとっくに濡れてしまっているし、諦めて両手で引っ張り上げることにするか。邪魔になる傘を閉じようと、一旦ルークから手を離す。その瞬間、辺りが明るくなった。光ったのはほんの僅かな時間だけ。
大きく目を見開いたルークが空を見上げた。それに釣られて、俺も上を向く。そうすると雨粒がまともにぶつかってくる。
しばらくして聞こえてきたのは、ゴロゴロという音。ついに雷まで鳴り始めてしまったようだ。
早く中に入らないと。閉じた傘を放り捨て再びその手を取ろうとした俺の前で、ルークは上を向いたまま、何かを探すようにきょろきょろと頭を動かし始めた。何をしているんだ、こいつは。思わずルークの様子を見守り続けてしまう。
少しして、再び光る空。やがて聞こえてきた雷鳴に、ルークがたどたどしく叫ぶ。
「ガイ、ガイ! たいへんだっ!」
……大変、と言われても。反応に困って小首を傾げる。
最近やっと「大変」という言葉を覚えたまでは良かったが、食事を見ても様子を見にきた婚約者を前にしても「大変」と騒ぐもんだから、こっちが大変だ。
そんなどうでもいいことを考えているうちに、またピカッと光る。遅れて鳴り響いた雷鳴は、さっきより大きい。大変だ! と空を指差したルークが、負けじと大声で続ける。
「そらがおこってるぞ!?」
「……え?」
呆気に取られている俺のことなんてつゆ知らず、騒ぎ続けるルーク。閃光に白く染まったその幼い顔つきを見て、ようやく今の言葉が頭に入ってきた。
空が怒ってるぞ――ルークはそう言ったのだ。
ああ、確かに怒ってるみたいだ。雷の音を聞きながら、何故か妙に納得していた。ずっと前、まだ幼かった頃の俺もそんなふうに感じていたから。突然鳴り響く雷が、俺を叱っている時の姉上と似ている気がして、怖かったんだ。厳しくて、怖かった姉上。だけど本当は、とても優しかった。そんな姉上が、俺は大好きだった。
だけどもう、姉上は俺を叱ってくれない。姉上は死んでしまったから――こいつの父親達に殺されてしまったから。
雷が鳴った。普段は心の奥底に沈めてある感情が湧き上がってくる。何も知らないルークが心底憎いと思った。いっそのこと、今すぐ殺してしまえばいいんじゃないかとさえ思う。
なのに俺は、吹き出していた。
だって、おかしいじゃないか。雷や姉上に怯えていた頃の俺より幼かった頃のルークは、それこそ子供みたいなことなんて言わない奴だったのに。今になって、子供じみたことばかり言うようになってしまったのだ。
すべての記憶を失ったせいで年齢よりずっと幼く見えるルークが、おかしくて、少し哀れで……ちょっとだけ安心してしまう。
「ガ~イ?」
ルークが不思議そうに俺を見上げてくる。もう慣れてしまったのか、雷が鳴っても驚かない。
俺は何かを言おうとして、言葉に詰まる。一体何を言いたかったのか、分からなくなってしまったからだ。だから黙ったまま、手を差し出した。そろそろと伸びてくる、自分のものより小さな手。
「ガイは、もうおこってないのか?」
まっすぐ見つめてくる翡翠のような瞳を見返す。――ああ、何だ。ちゃんと分かってるんじゃないか。
ルークの手が触れる。雨と泥で、すっかり汚れてしまっている。参ったなあ、ほんと。
苦笑しながら、もう一方の手を赤い頭の上に乗せる。こっちもびしょ濡れだ。
「……怒ってないよ。さあ風邪をひいたら大変だ。早く戻ろう」
わしゃわしゃと濡れた頭を撫でてやると、目を丸くしていたルークが笑う。どこまで理解しているかなんて、もうどうだっていい。
しっかりとルークの手を掴むと、今度はすんなり立ち上がってくれた。
空が光った――と思ったら、すぐさま大きな音が鳴り響く。かなり近づいてきているようだ。
「すげえ怒ってるなあ」
ぽつりと呟くと、繋いだままの手を、ルークがぶんぶんと振った。
「すげーすげー!」
「おいおい……」
そんなとこ、真似しないでくれよ。苦笑している間にも、雷鳴は轟く。はしゃぐルークの手を引っ張って、屋内へと急いだ。まずは風呂だ。
庭に傘を置き忘れたことに気が付いたのは、無事にルークの着替えも済んで、すっかり雷が遠ざかってからのことだった。
(by sakae)
END
(10-04-11初出)
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