しずく

水たまりの記憶の後日談ですが、ハッピーエンドではありません。それでも大丈夫な方だけお読みください。


※無断転載・AI学習を固く禁じます。
 激しい雨音に青年が目を覚ましたのは、まだ夜が明ける前のことだった。明かりが灯されていない暗い部屋の中、彼は静かに呼吸を繰り返して耳を澄ませている。だけどついさっき確かに聞いた筈の雨音は、いつまで経っても聞こえてはこなかった。
 ゆっくりと身を起こしベッドを離れた青年は、閉じていたカーテンを引いて外の様子を伺う。ほんのりと明るくなり始めた空は、しかしそのほとんどが灰色の雲に覆われていた。続いて窓を開く。そうすれば湿気を孕んだ空気が室内に招かれる。雨の気配は感じるものの現在降っている様子も、降っていた形跡もなさそうだった。
 青年は知らず知らず押し殺していた息を、吐き出した。雨はきっと、夢の中で降っていたのだろう。だが、降るのも時間の問題だ。そっと目を伏せる。
 最後に雨を目にしたのは、もう二年も前だ。
 自分と同じ顔の男と二人で、けれど別々の場所から同じ雨を見た。そのことを忘れず記憶に留めておきたいと言ったのは、ルークの方だ。
 そしてその願いどおり、青年はあの日のことを忘れずに覚えている。
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 青年は夜の気配が濃く残る庭を散策していた。想像していたよりずっと、風が冷たい。見上げた空は、先ほどより少しだけ明るみを帯びてきたような気もするが、暗い雲のせいでまだ朝は遠くに感じる。
 見渡すまでもなく、視界に入ってくる花壇。よく手入れされている色とりどりの花達は、仄暗い世界でも存在を主張しているかのようだった。咲いている花の種類こそ時季によって異なるが、この庭は昔からあまり変わっていない。青年はよくここで、ヴァンに剣の稽古をつけてもらったものだ。
 しかしヴァンがこの場所に、この屋敷に現れることは二度とない。彼はもう、この世に存在しないのだ。
 整った庭の中央で立ち止まった青年は、足元に視線を落とす。彼自身も、またこの地を踏むことはないだろうと思っていた。ほんの十日前までは。
 二年前、青年は死を迎えた。
 予兆はあった。死に方こそ想定していなかったものの、もうじきこの世から消えてしまう運命を悟っていた。だからすべてが終わったその時、ここへ帰ってきてほしかったのだ。自分と同じ顔を持つ、あの男に。
 だというのに、男は青年にここに戻れと言ってのけた。それに対して、青年が憤るのも仕方がなかったのだ。もうすぐ自分は死んでしまう為、帰りたくとも帰れる筈がないと思っていたから。
 それから少し経ったあと、青年は決戦の地エルドラントで果てた。確かにその筈だった。
 けれど青年は今もしっかりと呼吸をし、昔のようにバチカルの屋敷で暮らしている。生きているのだ。間違えようもなく、青年は確かに生きている。
 成人の儀が執り行われた十日前のその夜、青年は二年もの眠りから目覚め、淡い光を放つ花に囲まれた場所で幼なじみ達との再会を果たしたのだ。
 バチカルに帰還した青年を、両親は強く抱きしめた。奇跡だと二人は幸せそうに泣き、そして悲しげに笑う。彼らのもう一人の息子の姿は、どこにも見当たらなかった。
「ルーク様」
 名を呼ばれ青年は振り向く。こちらに近づいてくるのは、使用人の一人だ。彼らは、まだ夜も明けきっていないうちから仕事をしている。
「おはようございます。まだ起床時間までかなりありますが、どうかされましたか?」
 早くに目が覚めてしまったから散歩をしているのだと告げれば、使用人は納得したように笑顔で頷く。彼は最近屋敷に仕えるようになったばかりで以前に面識はなかったが、親しみやすい性格だった。昔の自分を知らないという点も、青年にとっては接しやすい理由のひとつだろう。
 廊下から青年の姿が見え、心配で様子を見にきたのだと使用人の男が言った。それから何度か言葉を往復させたあと、空に目を遣った使用人は眉をひそめる。
「ひと雨降りそうですね。ルーク様も、濡れないうちにお部屋へお戻りください」
「ああ」
 失礼しますと頭を下げて仕事に戻っていく使用人を見送ったあと、青年はゆっくりとした足取りでいくつか設けられているベンチのひとつに向かった。それに浅く腰掛けると、ちらりと空を見る。雨はまだ降らない。
 ――ルーク、か。
 庭の中央を囲う池の流れをぼんやりと眺めながら、使用人が呼んだ名前を頭の中で反芻する。青年自身のものであり、同じ顔の男のものでもある名前。
 もう一人のルーク。彼も二年前、エルドラントで力尽きた。だが青年のように、奇跡の生還を果たすことはなかった。
 青年が生きていることこそ、もう一人のルークが帰らないことを意味しているのだ。
 その真実を告げた人物の顔を思い出して、青年はぎゅっと目を閉じる。いつも笑みを張りつけていることが多かった異国の軍人は、その表情に深い悲しみの色が浮かんでいたことに、自分で気付いていただろうか。
 膝に置いた手の甲に何かが当たったような気がして、青年はハッと顔を上げる。池のどこかで水が跳ねる音。空いっぱいに広がった灰色の雲から、こぼれ落ちてくる水滴。
 雨だ。ついに雨が降り始めた。空を仰ぐ青年にも雨粒が降りそそぐ。
 あの日と同じように、冷たい雨だった。

* * *

 今まで何度、雨を見てきただろうか。それは二年前、グランコクマの宿で雨を眺めていたルークの脳裏に過ぎった疑問だった。
 これで見納めになるかもしれない。そう思い、雨の日の記憶を引っ張り出せるだけ引っ張り出して、もっと覚えておけばよかったと悔やんだ。窓から突き出していたせいで濡れてしまった左手のように、心まで冷えてしまいそうになる。
 そんなルークに、回線を通じて砂漠の街で雨を目にしていたアッシュは言ったのだ。雨が降っていようが晴れていようが、記憶に残るもんは勝手に残る、と。それに納得したルークは、雨と記憶は似ている気がするなと思った。雨が残した水たまりも、人々の記憶も、段々と薄れていくから。
 しかし、すぐにその思考を自ら否定することとなる。自分が死んだあと、すべてを忘れ去られてしまうのが嫌だった。
 だからアッシュに宣言した。突然雨が降ったことを、それを見ながらアッシュと話したこの日を、忘れないと。
 ――せめて、次に雨が降る時まででいいからさ。……覚えててくれよ。
 それなのに、すぐにでも忘れてやると返してきたアッシュに苦笑しながらも、ルークは願う。だって最後に降った雨のことなら覚えているかもしれないと言ったのは、アッシュだ。
 彼が再び雨を目にするのが、ずっと先ならいい。いつ乖離して消えてしまってもおかしくない状態のルークは、そんなふうに思った。自分のことを少しでも多く、覚えていてもらえたなら――。
 左手に閉じ込めた雨粒。それが、ルークにとって最後の雨となった。

* * *

 雨脚が強くなったのはほんの僅かな時間だけで、すぐに勢いは衰えていった。空模様からして、そろそろ止むだろう。
 すっかり濡れてしまったベンチに座る青年は空から視線を離すと、左手を開いて細かい雨粒を受け止めた。しかしどれだけ受け止めようと、どれだけ濡れようと、いつかは必ず雨は乾いてしまう。青年にはそれが分かっていた。濡れた手を、ぐっと握りしめる。
 雨と記憶が似ていると考えた同じ顔の男の記憶も、増えていく過去に埋もれ、いつかは必ず薄れゆく。それも分かっていた。――分かっているのだ。
 砂漠の街から見たあの雨空が、徐々に色あせていく。
 共に雨を見た男が生きていた時間が、段々と遠ざかっていく。

 やがてベンチから腰を上げた青年は、空を見上げた。まだ雲は多いものの、空はもう随分と明るくなりつつある。暗かった庭にも朝の空気が立ち込め、遠くからは鳥の鳴き声が聞こえてきた。
 青年の服や長い髪から、水が滴り落ちていく。夜と共に立ち去った雨の名残だ。それらを少しだけ見つめたあと、彼は歩き始めた。
 青年の頬から滑り落ちたしずくが、またひとつ、静かに地面へと消えていく。
(by sakae)


END
(12-12-01初出)

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