彼方へ消える星

※無断転載・AI学習を固く禁じます。
 人は死ぬと星になる。満天の星空の下、ふとアッシュが思い出したのはそんな話だった。
 特段星を鑑賞したかったわけでもなかったのだが、外にいる今、それは自然と目に入ってくる。見事な星空だ。森を抜けて、空を覆い隠すように茂っていた木々が少なくなってくると、いつしかアッシュは足を止め空を見上げていた。
 人が星になる――それは子供の頃に聞かされた、つまらないおとぎ話のひとつに過ぎない。昔から微塵も信じていなかったし、星なんて今まで何度も目にしてきた筈だった。
 なのに何故、今になってこんな話を思い出しているのだろうか。思わずアッシュは顔をしかめる。不愉快だった。最初は柄にもなく、綺麗な夜空に感嘆の息さえ漏らしてしまったというのに。その話を思い出した途端、胸の奥が締めつけられるような感覚を覚え、呼吸さえ苦しくなっていた。
 ざあっと冷たい夜の風に揺すられた木の鳴き声に我に返ると、思考を振り払うようにアッシュはぶんぶんと首を振った。のんびり星など眺めている場合ではない。街からほど近いとはいえ、この辺りには魔物だって生息している。そのうえ、もう夜も遅い。旅をしていれば小さな油断が命取りになることなんて、数え切れないくらいにある。気を抜くのはあまりに危険だ。
 アッシュはキッと星を睨みつけたあと、まっすぐ前を見据えて歩き始めた。すでに星は眼中にない。前方から吹く風が潮の匂いを運んでくる。海が近い。グランコクマまで、あともう少しだ。

 無事に街にたどり着いた頃には、すっかり夜も深まっていた。
 大量のレプリカや新生ローレライ教団の登場に世界の情勢が不安定なうえに、こんな時間だ。マルクト帝国の首都に入るのは容易ではないだろう。そう考えていた。事実、街の入口では見張りが目を光らせていたのだ。だが見張りの兵はアッシュの姿を認めるなり目をぱちくりとさせて、「ルーク様!」と叫ぶような声を出しながら近づいてきた。
「いつの間に外に出られたのですか! 一人で街の外を出歩くなんて危険ですよ。さあ、早く城へお戻りください!」
 すんなりと、否。むしろ押し込められるようにして街の中へ通されたのである。拍子抜けするほど簡単に街に入れたにもかかわらず、しかしアッシュの表情は浮かなかった。
 自分と同じ存在――レプリカが、あいつが近くにいる。アッシュはギリっと奥歯を噛みしめた。胸に渦巻くそれが、少し前に感じたものと酷似している気がして、気分が悪くなる。どうにか気を紛らわそうと、空に視線を持ち上げたのがいけなかった。先を急ごうとしていた筈の足が、ピタリと停止する。
 空にはひしめき合うようにして、星達が輝いている。それはもう綺麗なのを通り越して、怖いくらいに。ぞくり、と背筋が凍る。
 ――怖い? 星の何が怖いというんだ、馬鹿馬鹿しい! 自分自身にも理解出来ない感情を誤魔化そうと、目を閉じたアッシュは深呼吸を繰り返した。少しして落ち着きを取り戻してくると、ゆっくりと目を開く。
 改めて見上げた夜空は不気味ではなかった。やわらかな月の光に、心地好さを感じるほどである。きっと疲れているんだろうとアッシュは息を吐き出した。明日にはここで漆黒の翼と落ち合う予定だ。それまではしっかりと体を休めておいた方が良さそうだ。どうせレプリカが新しい情報を持っている筈がない。ルークの存在を頭の片隅に追いやり、宿を探そうと決める。名前を呼ばれ立ち止まる羽目になったのは、それからすぐのことだった。
「アッシュ?」
 背中に掛けられた声の持ち主を確かめるのに、振り返る必要などなかった。近づいてくる靴音にアッシュは舌を打つ。呼んでもないのに勝手に出てきやがって。呼びかけられるまで気配に気が付けなかった自身にも、腹が立っていた。
「やっぱアッシュ、だよな。こんな時間に会うなんて思わなかったよ」
「……それはこっちのセリフだ。夜中に徘徊してんじゃねぇよ、屑」
 不機嫌なのを隠すことなく、アッシュはしかめ面のまま振り返る。想像どおり、自分と同じ顔の男が歩み寄ってくるところだった。
「徘徊って……。ただ眠れなくて散歩してただけだ。そういうお前だって――」
 鋭い眼光に怖気づいたのか、ルークは歩みを止める。そのまま押し黙ってしまった彼に、アッシュはふんと鼻を鳴らした。
「相変わらず情けない面だな、劣化野郎」
 明るい夜だ。目を凝らさなくとも簡単に相手の様子を伺うことが出来る。だからルークの表情が暗いことに、アッシュはすぐに気付いていた。
 顔に出やすい彼のことだから、何かあったに違いない。けれどアッシュはルークの話を聞いてやるつもりも、ましてや慰めてやるつもりなんて、これっぽっちもなかった。それどころか、さっさと立ち去ってしまおうとすら思っていたのだ。それなのに。
「大丈夫か? お前、顔色が良くねーみたいだけど……」
 あろうことか、レプリカの方が心配そうに顔を覗き込んできたではないか。そのことに、アッシュは戸惑いを隠せなかった。
「なっ! ……ふざけるなッ!」
 ――顔色が悪いのはそっちだろう! 大体レプリカ如きに心配なんてされてたまるか!!
 そう続けたかった筈なのに、どういうわけか言葉が出てこない。言いようのない苛立ちを抑えようと、アッシュはルークから目を逸らす。
 その瞬間、全身を矢で貫かれたかのような衝撃が走った。視線の先では、幾千もの星達が青白く煌めいている。もうそれを、綺麗だとは思わなかった。アッシュには、星々が不気味に発光しているようにしか見えない。
「……ッ」
 目を背けたいのに、あの不気味な光を手で覆い隠してしまいたいのに、体が言うことを聞いてくれなかった。ただ見開いたままのアッシュの目に映り込む、数えきれない数の星々。
 様子がおかしいことにルークも気付いたのだろう。何度か呼びかけられた気もしたのだが、アッシュにはその声がどこか遠くに聞こえた。足元がふらつく。まるで向かい風に流されるように、体が後ろへ傾いていった。
「アッシュ……!?」
 ルークが叫ぶ。そしてアッシュの体からも悲鳴が上がった。倒れ込む寸前に支えられたから、硬く冷たい地面に体を打ちつけてしまったわけではない。
 けれど伝わってくるのだ。勝手に開いてしまったフォンスロットから。腕を掴んでいるその手から。腰を支えるその腕から。体に触れているルーク自身から――体温と共に、それはアッシュの中へ流れ込んでくる。
 剣で斬りつけた時の、あの感触。息絶える直前の息づかい、死にたくないと救いを求めて伸ばされた、血に塗れた赤い手――人を殺した、その瞬間の記憶が。
「―――ッ!」
 悲鳴は声にはならなかった。喉の奥が熱い。まるで奪われてしまったかのように、声が出なかった。
 ――嫌、だ。嫌だ嫌だいやだ……!! 胸の奥では何度も何度も繰り返し、叫んでいる。
 思い出してしまった。初めて人の命を奪った時に生じた胸の痛みを。ずっと忘れていた筈の、気付かなかったふりをしていた、あの感情を。斬らないと斬られる。何をするにも犠牲は付き物だ、だから仕方がない。そう考えてしまい込んでいたのに。なかったことに、していたのに。
「アッシュ!」
 力強く肩を掴まれて、アッシュは視線を動かした。風に揺れるの向こうから、アッシュを射抜くように放たれている無数の光。
 人は死ぬと星になる。今まで奪ってきた命の数だけ、その光は夜空を飾りつけていた。

* * *

 このままにしておいて大丈夫だろうか。地面に手をつき、肩で息をしているアッシュの背をさすってやりながら、ルークは考える。この位置からでは見えないが、彼は未だ青ざめているのだろう。普段の彼なら、とっくにルークのことなんて跳ねのけているに違いなかった。それをしないのは、彼の置かれている状況が良くないからだ。
 だけど、どうしてやることも出来ない。ルークは己の無力さにくちびるを噛みしめる。だが落ち込んでいる暇があるなら、誰か呼んできてやった方がいいのではないか。そう思い直すと、すぐに立ち上がっていた。
「ごめん、少し待っててくれ。誰か呼んでくるよ」
 言いながら見下ろした被験者はいつになく弱々しく見えて、ルークはさらに不安になる。ティアやナタリアは優秀な治療師だが、おそらくアッシュは彼女達――特にナタリア――に、弱った姿を見られるのは嫌に違いない。だから、ジェイドを頼ることにした。彼がいるマルクト軍基地本部へ向かおうとしたルークだったが、違和感を覚えて振り返る。
「……アッシュ、どうかしたのか?」
 違和感の正体は、服の裾を掴まれていたこと。といっても、その力は弱く、アッシュの手はすぐに地面に落ちていく。引き止められた理由が分からなくて、ルークはもう一度訊ねる。返答はなかった。相変わらずアッシュは下を向いたままだ。やはり、今日の彼は様子がおかしい。
 月明かりが照らすその後ろ姿が震えているように見えたのも、気のせいではなかったのだろう。いつもなら話しかけるのも躊躇《ちゅうちょ》するのに、気付けばルークは声を掛けていた。最初は体調が優れないのだと思っていたが、多分それは違う。ルークには、アッシュが何かに怯えているように見えた。何故なら、さっき彼が見せたあの表情は――。
「……だ」
 耳が拾った小さな声にルークは思考を中断させる。続く言葉をしっかり聞き取ろうとアッシュの側にしゃがみ込んだ瞬間、ものすごい力で引き寄せられた。
「ッ! アッシュ……?!」
「お前の……お前のものだッ!」
 胸ぐらを掴むアッシュの眼光が、鋭く尖った刃物のようにルークを突き刺してくる。一体、何が自分のものだというのか。聞き返したかったものの、気迫に押されて声を出せない。
「これは俺のもんじゃねえ……! こんな、今更、こんなッ……」
 ああ、まただ――ルークは心の中で呟く。またアッシュがあの顔をしている。人を殺した夜にいつも見る悪夢から目覚めたばかりの、自分とひどく似た顔を。
 今夜も、その夢を見たばかりだ。思わず飛び起きてからも、夢の残像は鮮明に焼きついていた。この街を訪れる少し前、ルークは襲いかかってきた敵を斬ったのだ。しばらくして首筋に汗が伝っているのに気付く余裕が生まれると、ゆっくり息を吐き出した。
 もしかすれば、起きる直前までうなされていたかもしれない。そんな考えに、ルークはこの国の皇帝に心から感謝した。当初の予定では用が済み次第すぐにでもグランコクマを発つ筈だったのだ。それが急遽城に泊まることになったのはピオニーの提案によるもので、そうして用意されたのは一人部屋だった。だから仲間達に余計な心配を掛けずに済んだのだろう。
 呼吸が大分落ち着き冷たい水で顔を洗っていると、鏡の中の自分と目が合った。ひどい顔だ。このままではいけない。そう思って、こっそり城を抜け出した。散歩でもしながら外の空気を吸えば、気が紛れると考えたのだ。
 しかし鏡の中にあった筈の顔が、今、目の前にある。
「なあ、お前は何が怖いんだよ」
 一体、何に怯えているんだ。ようやく絞り出せた声は、弱々しいものだった。こんな時一体どうしてやればいいのか、ルークには分からない。だって自分自身の時ですらどうすればいいのか、分かっていないのだ。
 アッシュの腕にそっと触れると、胸ぐらを掴んでいた手は意外とあっさり離れていった。少しは気分が落ち着いてきたのだろうか、座り込んだ彼の呼吸はもう荒くはない。けれど再び俯いてしまった為、表情までは分からなかった。それでもまだあの顔をしていると、ルークは確信を持っている。
「……お前、は」
 少しして、おもむろに顔を上げたアッシュと目が合った。揺れる翡翠からは、いつもの自信は伺えない。
「まだ人を殺すことが怖いのか」
「……」
 突然の問いかけに、ルークは目を逸らしたくなった。だが互いに弱々しいながらも、視線はしっかりとかち合う。
「………怖いよ」
 おそるおそる口にした。改めて言葉にしてしまうと、涙が込み上げてきそうになる。そんなルークに、普段のアッシュなら怒鳴りつけてきたに違いない。だが彼は、目を伏せただけだった。
「アッシュは――」
 同じ質問を投げかけたくなったが、結局ルークは聞き返さなかった。人の命を奪うことに抵抗があるのは自分一人だけではないと、旅を続けてきた中で知っていたから。仲間も他の者達も皆、思うところはある。それを表に出すか出さないかだけの違いだ。
 くちびるを引き結んだルークは、己の手に視線を落とす。いくつもの命を奪ってきた手だ。ぎゅっと握りしめる。ちらりと様子を伺ってみたアッシュも、俯いたままだった。彼もまた自分と同じように苦悩しているに違いない。だから問うてきたのだろう。
 ルークは地面に座り直すと、空を仰いだ。ジェイドを呼んでくるという選択肢は、すでにない。彼を連れてきたって意味がないのは分かりきっていた。
「――すげぇ」
 何とはなしに見上げた夜空に、思わず感嘆の声が漏れ出る。数えきれないほどの星がそこにあることを、今更ながらに知ったのだ。いや、何度も目にしていた。だけどぼんやりとしていたから、気に留めていなかったのだ。
 うっとりと星空を見上げるルークの側で、アッシュが体を強張らせる。そのことに気付いたルークは不思議に思い、自然と疑問を口にしていた。
「ひょっとしてお前、星が嫌いなのか?」
 同じ形状のものがたくさん集まっているのが苦手な者もいるのだと、いつだったか聞いたことがあった。アッシュもそうなのだろうか。しかし彼はふるふると首を横に振る。
「……別にそういうわけじゃねぇ。ただ……」
 少しだけ顔を上げてルークの方に目を向けたアッシュは、途中言い淀みながらも続けた。
「お前、死んだ人間が星になるって話を知っているか」
「へ?」
 目を丸くしたルークは、ついアッシュを凝視してしまう。彼の口から出てきたにしては、あまりに浮世離れした話だと思ったからだ。けれど見返してきた目は真剣そのもので、ルークは首を捻りながらもどうにか記憶を引っ張り出す。
「んー。どっかで聞いたことがあるような気もするけど……」
 おそらくは昔、ろくに言葉も喋れず赤子同然だったルークに、誰かが読み聞かせてくれた物語のひとつだったのだろう。曖昧な記憶しかなかったが、初めて聞いた話ではない気がする。
 それにしても。まじまじとアッシュを見つめる。何故彼がこのタイミングでそんな話を持ち出してきたのか、さっぱり分からなかった。別にルークは、星に携わる物語が聞きたかったわけではない。らしくない様子のアッシュが、星が嫌いなのかどうかが気になっただけだ。
 そこまで考えてハッとしたルークは、納得したように大きく頷く。
「そっか。星が嫌いなんじゃなくて怖かったのか」
「何がそっか、だ! あんなもの怖いわけないだろうが! ……ただ、その話を思い出して、……不気味だと思っただけだ」
「…………」
 睨めつけるように星を見遣るアッシュの顔色は、悪いように見える。
 ――不気味、か。ルークも目を空へ戻した。死んだ人間が星になる。もしそんなことが本当に有り得るのだとすれば、この夜空は今までルークが殺してきた人々でいっぱいなのかもしれない。そんな想像だけで、息をするのさえ忘れてしまいそうになる。あれは目だ。あの光は星などではなく自分を恨み、睨みつけてくる無数の目。
 ――いや、そうじゃない。さっき見たばかりの夢が鮮明に蘇りかけたところで、ルークは慌てて暗い思考を振り払う。昔聞いた物語の続きを思い出したのだ。
「……星になった人はさ、大事な人達を空から見守ってるんだって聞いたよ」
 だから睨んでいる筈がない。ルークは自身に言い聞かせるように、はっきりと言葉を紡いだ。そうであってほしかった。そう思い続けていたかった。
「――ふん、馬鹿か。どっちでもねぇよ、あんな子供騙しの話。あるわけがねえんだ」
 そう鼻で笑ったアッシュは、しかしどこか安心したように見えて、ルークはそっと微笑む。怒鳴られるのは嫌だが、彼のつらそうな姿を見るのも決して気持ちのいいものではなかった。
 ぼんやり見上げた星空は、ルークやアッシュのことを優しく照らしているように思えた。本気で信じるわけでもないが、どうせなら大事な人を見守っているという話の方が、ずっといい。生きている者にとっても、――そして、これからこの世を去る者にとっても。
 ――レプリカでも星になれるのかな。なあイオン、お前は今そこにいるのか?
 幾多の星の中から友人を探そうと、ルークは目を凝らした。やわらかなその光は、どこか彼を連想させる。すぐそこにいるような気もしたし、やはりいないような気もした。
 涙腺が緩んでくるのが分かって、ルークはくちびるを噛みしめる。悲しいわけではない。ただ、少し寂しかった。答え合わせが出来る日は、そう遠くない。もうじき尽きてしまう命は、ここにある。
 だけどもしも本当に、みんな星になるのだとしたら。……うん、柄じゃねーな。仲間達を空から見守る自分を想像し、おかしくなってルークは吹き出した。それを不思議に思ったのか、同じように星を眺めていたアッシュが怪訝そうな目を向けてくる。彼と目が合った瞬間、ルークは先ほどまでの想像を自ら打ち消した。
 駄目だ! だってもし、俺が星になっちまうんだとしたら――。なあ、と呼びかけた声は震えてしまっていた。
「もし俺が。……もし、お前より先に死んじまったとしたら」
 最初のうちはきょとんと目を丸くしていたアッシュだったが、やがてルークのことを見下すようないつもの目つきに変わっていく。
「何だ……星になって見守ってやるとでも言うつもりじゃねぇだろうな、てめぇは」
「違う! その反対だ」
 胸糞悪いと吐き捨てたアッシュに、ルークは左右に首を振って即答した。
「俺は絶対星にならない。お前の前から、ちゃんと消えるから。……だから、その時はバチカルに、母上達のところへ帰ってやってくれよ」
 立ち上がったアッシュが大きく動くのを目にしながらも、ルークは続ける。
「なあ、――ルーク。お前はあそこに帰るべきなんだよ」
 左頬の衝撃と同時に体が飛ばされそうになったルークを、きつく胸ぐらを掴む手が引き止める。息が苦しい。
「お前はッ! お前はまだそんなことを言うのか!!」
 至近距離からの怒声とその表情に、ルークは目を伏せる。
「くどいんだよ何度言わせるつもりだッ! 俺はもうルークじゃねえ!! そもそも……!」
 途切れる怒鳴り声。もう一発殴られるのを覚悟していたのだが、意外にもアッシュは手を離した。力が抜け落ちたルークはれ、地面に横たわる。打ちつけた後頭部が痛かったが、声は出なかった。
「……お前がいつどこでくたばろうが、俺には何の関係もねぇんだ。自惚れるな」
 背中を向けたアッシュは、そのまま街の奥へと消えていく。立ち去る彼に掛ける言葉もなく、一人残されたルークは視界いっぱいにひしめき合う星達を、ただただ見つめていた。

* * *

「一体何なんだあいつは! あの口からは卑屈な言葉しか出せねぇのか!」
 静かな街の中を、アッシュは苛立ちを口にしながら突き進む。
「何が星にならない、だ!」
 そんなの当たり前のことだ。人が星になる筈がない。つい大きく舌を鳴らす。ルークの言葉が、いつも以上にアッシュの機嫌を悪くさせていた。
 人は死ぬと星になる。何故今になって、こんな話を思い出してしまったのか。おそらくそれは、己の身に死が迫っているからだろう。もうすぐアッシュは死ぬ。先に死ぬのはレプリカなどではない、自分なのだ。
 足を止めると、今は忌々しく感じる星を睨む。そう遠くない未来に終わりを迎える。残された時間は少ない。アッシュはそう確信していた。だから今更、命の奪い合いをためらう暇なんてない。悔いる時間など必要なかった。どうせすぐ、奪ってきた命のあとを追うことになるのだから。本当に、今日はどうかしていた。近くにいたせいか、レプリカに感化されてしまったようだ。そんなふうに考えながら、大きく息を吐き出す。
 着実に萎えていく力。掻き乱されそうになる意識。被験者が死にゆく事実を知ったら、あのレプリカは自分のせいだと嘆くだろうか。目に見えるくらい簡単に想像出来て、アッシュは口の端を吊り上げる。知ったことではない。勝手に死ぬまで、苦しみ続ければいいのだ。レプリカへの憎しみが、消え失せることはない。だが――。
 未だに人を殺すことが怖いと言い切った際のルークの顔を思い出す。自分と同じ筈なのに、つらい表情を隠そうともしなかったレプリカ。心の弱さをけ出すなんて、本物の馬鹿がすることだ。そう思うのに、不思議とさっきのような怒りは湧いてこない。
 ――すべてが終わったら、俺の命が尽きたその時なら、レプリカが好きに生きたって構わない。この世から被験者さえいなくなれば、今度こそレプリカが真のルークとなるのだろう。だからもうルークは、被験者の影に縛られる必要もなくなる。
 仮に可能だとしても、空からレプリカを見張るような真似をするつもりはなかった。罵ったり蔑んだりするのは、生きている間だけで勘弁してやろう。すべてが終わったその時なら、憎い筈のレプリカも何もかもが許せるような気がするのだ。
 空から目を離すと、アッシュはもう一度歩き始める。視界の隅で尾を引いた星がひとつ、遠くへ消え去っていったが、気に留めることはなかった。

* * *

 流れ星を目にして、ようやくルークは体を起こした。ああ願いごとしそびれちまったな、なんてことを考えながらアッシュが去っていった方角に目を向ける。当然ながら、とっくに彼の姿は見えなくなっていた。
 彼はもう大丈夫なのだろうか。少しだけ心配だったが、さっきの様子ならとりあえずは平気だろうとも思っている。それよりも自分のことだ。殴られた頬はまだじんじんとしている。きっと腫れてしまっているに違いない。そのうえ頭も痛かった。
「……俺も、そろそろ戻らねえとな」
 左頬に手を添えてぽつりと呟くと、のそのそと立ち上がった。一人になってしまえば、不思議と寒さが増したような気がする。潮風にぶるりと体を震わせながらも、歩き出す。
 そうすれば来る時には気にならなかった星達が、どこまでもついてくるようだった。ほんのり赤く見える星に、アッシュを思い浮かべる。今日の彼は随分と情緒不安定だったように見えた。
 ――あいつだって、怖いって思うことはあるんだよな。生きた人間なのだから、当然だった。もしルークが死後に星になったとしたら。もしこの夜空に存在し続けていくのだとしたら。アッシュは未来永劫、苦しみ続けることになるだろう。
 だが、それでは駄目なのだ。すべてが終わったら、今度こそ〝ルーク〟に戻り、暮らしてほしいから。もうすぐ。ルークは手をきつく握りしめる。
 もうすぐ、この世からレプリカはいなくなる。そうなれば元通り、〝ルーク・フォン・ファブレ〟は世界に一人きり。星になんか、ならない。アッシュの前から消えてやることだけが、せめてもの救いになる。ルークはそう信じて疑わなかった。
「大丈夫だ。この肉体も心も、何ひとつお前に残しはしないから」
 ルークは歩みを止めると、後ろを振り返った。そして遥か遠くへ消え去った星に向かうように空を仰ぐと、深く目を瞑る。自分の死後、この夜空に瞬く星がひとつ増えぬことを、強く強く願いながら。
(by sakae)


END
(12-02-15初出)

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