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空を見上げるその表情は、傍から見れば間抜けにも見えるだろう。窓際に突っ立ったままのルークは口を閉じるのも忘れ、じっと空を眺めている。
きっかけは、窓の向こうから聞こえてきた小さなさえずりだった。それまで本を読む俺の隣でああだこうだと騒いでいたルークが聞き覚えがあると言い出して、そっと窓を開けたのだ。しっとりとした空気が部屋の中に入り込んでくると共に、鳴き声が少し近くなる。
軽やかな鳥の声は俺にも覚えがあった。おそらく、今の時季にバチカルへやってくる渡り鳥の一種だ。窓際に立ち、その小さな姿を認めたらしいルークもああやっぱり、という表情になる。
「あの鳥……あれ、何て名前だっけ。ガイに教えてもらった筈なんだけど」
独り言なのかルークが小さく呟く。たとえ訊ねられているのだとしても、俺にも答えることは出来なかっただろう。ここから姿は見えないものの鳥の見た目こそ想像がつくが、どうしても名前の方が出てこなかったのだ。思い出そうと試みるが、うまく記憶を引っ張り出せずにいる。
……まあ別に、今すぐ思い出さなければならないことでもないか。少しの間考えたあとは釈然としない気持ちが残りながらも、読みかけの本に目を戻すことにした。時間は有効に使うに限る。
まだ鳥に夢中になっているのか、ルークはこっちに戻ってくる気配がない。ようやくゆっくり本が読めると思いながら、新しいページを開いた。穏やかなさえずりは、思いのほか耳に心地好い。自然と頬が緩む。ただ、窓から入ってくる風で揺れる自分の髪が少しくすぐったい。軽く髪を掻きあげる。
ひたすら文字の羅列を目で追いかけていき、何度かページを捲ったあと、鳥の声が聞こえてこないことに気付いた。思っていたより本に夢中になっていたらしい。鳥はもう近くにいないのだろうか。
窓の方へ目を向けると、そこには外を見続るルークの姿があった。そんなにあの鳥が気になるのか。驚くと同時に呆れた。あれから、少なくとも二十分は経っている筈だ。
だがその視線は先ほどよりずっと上にある。庭を見続けていたわけではないようだ。空を見ているのか、それとも、何か考えごとでもしているのか。ともかく、ルークは上を向いてぼんやりとしている。
「おい。あの鳥、まだいるのか」
相変わらず鳴き声はさっぱり聞こえてこないものの、一応訊いてみる。うわの空な様子に返事はほとんど期待していなかったが、意外にもすぐに否定の言葉が返ってきた。
「とっくに飛んでいっちまったよ。結局、名前は思い出せなかったし」
「まだ気にしてたのか」
「悪かったな」
心底呆れたのが、しっかり表情に出ていたのだろう。むっとした顔を俺に向けてきたルークだったが、すぐにまた視線を空に戻した。よほど気になっているものがあるらしい。
「さっきから何を見ている」
鳥はもういないと言っていた。ならば、熱心に見続けているのは何なのか。ここからは特別何かがあるようには見えない。……まあ単に、空を眺めながら鳥の名前を思い出そうとでもしているのかもしれないが。
俺の疑問にルークは再びこちらに顔を向けると、空を指差した。
「ん? ああ、雲」
くも、という言葉に一瞬別のものを想像して顔をしかめたが、すぐに空に浮かぶそれの方だと自分の勘違いに気付く。――それにしても、だ。
「……ずっと雲を見てたのか、お前」
さっきよりずっと呆れた声が出ていた筈なのに、ルークはといえば笑って頷いた。それから空を示していた手を使って、俺を招く。一緒に見よう、ということらしい。
しょうがねぇ。拒絶するまでの理由も特に見当たらず、開きっぱなしの本をベッドの上に寝かせてから窓際へ移動する。
促されるまま上を向けば、まず目に入ったのは青々とした空だ。ついさっきまで細かい文字を見ていたせいか、やたらと眩しく感じ、思わず目を瞬く。
眩しさに慣れてくると、ふわふわとした形の白い雲が、あちらこちらに浮かんでいるのを確認した。
なるほど、ルークはこれを見ていたのか。青空を背に綿雲がゆっくりと流れていく。それを見続けていると時間まで同じように、ゆったり流れているような気になってくる。そういえば、ここまでのんびりと空を見るのは、一体いつぶりのことだろうか。――まあ、たまには悪くねぇな。
「俺さ」
同じように黙って空を仰いでいたルークが口を開いたのは、大きめの綿雲が俺達の頭上に流れてきた時だった。一瞥すると、その目は空に向けられたままだ。
「雲には乗れるもんだって信じてたんだ」
「……」
「ガ、ガキの頃の話だよっ! そんな顔すんなっつーの!」
何とも言えないまま口を閉ざしていると、ルークが勝手に焦り出した。別に馬鹿にしたわけではなかったんだが。
こほん、とわざとらしい咳払いは落ち着きを取り戻す為だろう。ルークは大きい綿雲を指で示しながら、ああいう絵に描いたようなやつは特に、と笑った。
「けどまあ……。旅してて、アルビオールに乗るようになっただろ? あれがトドメだったんだよな〜」
「トドメ?」
「普通に雲の中通り抜けていくだろ。あれ、最初はすげえって思ったんだけど……ちょっとショックでさ」
苦笑を浮かべつつ溜息をつくルークを横目に、アルビオールから見た光景を頭の中に思い浮かべる。間近で見た雲は、まるで霧のようだった。実体のないそれらの中を、アルビオールは容易く突き進んでいくのだ。確かにあれを見てしまえば、雲に乗れるだなんて考えられなくなってしまうだろう。
「あの時まで、いつかは乗れるんじゃないかって、心のどこかで思ってたんだろうな」
ゆっくりと遠ざかっていく綿雲を見つめながら照れくさそうに喋るルークは、少しだけ寂しそうに見えた。
子供じみている、と思う。くだらねぇとも思わなくもない。ただ、不快には感じなかった。
ふと考える。俺はどうだっただろうか。
大きな綿雲は、もう半分ほど視界からなくなっていた。代わりに新しく顔を見せたのは、横長の雲。似たような雲は幼い頃にも見たことがある筈だった。それを思い出そうと、じっと目を凝らす。
「……俺は雲に乗れるだなんて、思ったこともなかったな」
「あー、だろうなぁ」
俺の言葉に妙に納得した様子のルークの足に蹴りを入れる。何だか腹が立ったのだ。痛いと大袈裟に喚くので、もう一発蹴っておく。うるせぇんだよ。
「何で蹴るんだよ!」
「知るか」
不機嫌そのままに顔を上げたので、傍から見れば俺は空を睨みつけているようにしか見えないだろう。本当に幼い頃でさえ、雲に乗れるだなんてこと微塵も考えなかった。そもそも、乗ってみたいとも思わなかった筈だ。
別にそのことで何か損したわけではないのに、何となくルークが羨ましかった。子供じみているとも、くだらないとも思うのに、だ。
隣に目を遣ると、ルークは大きな欠伸をしているところだった。目が合うと、へらりと笑みを返してくる。何だ、もう機嫌が直ったのか。
「けど、さすがの俺も思いもしなかったよ」
今度は一体何の話だ。予測がつかずに首を傾げると、人差し指を向けられたので睨みつけてやった。それでも楽しそうなのがまた腹立たしい。
「まさか、お前とこんなふうにのんびり空を見られるなんてさ。――ついでに、蹴りまで入れられるなんて」
呆気に取られたのはほんの一瞬だけで、次の瞬間には俺もにやりと笑ってやった。
「それは同感だな。あとそうだな、何度もその間抜けな面を拝めるとは思ってなかったぜ」
「何だよ! 今なんて、おっかねー顔して空睨んでたくせに」
「なっ! てめぇっ」
自覚はしていたものの、指摘されていい気がする筈もない。今度は拳骨をひとつくれてやる。
「おまっ、ひどすぎるってっ……!」
暴力的だの何だのと、涙目で抗議してくるルークを無視していると、庭先に小鳥が舞い降りてくるのが見えた。確か、あれは――。消えていた筈のもやもやが、みるみると成長していくのが分かる。
どうしても思い出せない名に眉を寄せていると、小鳥の存在に気付いたらしいルークも考え込むようにして唸り始めた。やはりさっきの鳥と同じなのだろう。俺達の気も知らず、小鳥は呑気に地面をつっついている。
――ああくそ! 今すぐに思い出す必要性はどこにもなかったが、このままではすっきりしない。
鳥をじっと見続けたところで思い出せそうになかったので視線を動かすと、視界には青空が広がった。あの大きな綿雲は、もうどこにも見当たらない。
「くっそ~、思い出せねぇ!」
悔しげな声を嘲笑うかのように小鳥が鳴いた。タイミングが良すぎる。頭を抱えるルークに、思わず吹き出しそうになった。
雲に乗れると夢見ていた子供もそうじゃなかった子供も、今は同じこと、それも大多数の者からすればどうでもいいであろうことを必死に考えているのだから、おかしな話だ。相変わらずゆっくりと空を過ぎ行く雲を見上げながら、俺は苦笑を漏らした。
(by sakae)
END
(11-04-23初出)
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