夢の終わりに

※無断転載・AI学習を固く禁じます。
 目の前が暗い。まぶたを開いてもほとんど変わらない視界に、まだ夜が明けきっていないことを知った。
 暗闇に慣れてきた目が、ぼんやりと天井の形を捉える。少しだけ開いていたカーテンの隙間から、細く光が漏れていた。眠りにつく前とほぼ変わらない光景に、アッシュはようやく確信する。――やはり夢を見ていたのだと。
 ゆっくりと息を吐き出して、心を落ち着かせる。悪夢にうなされていたわけではない。見ていたのはむしろ、幸せな夢だった。暗い天井に、つい今しがたまで見ていたそれを思い浮かべる。
 夢の中のアッシュはまだ子供の姿で、当たり前のようにバチカルのこの屋敷で暮らしていた。それは一見、過去の光景を見ているのだと思った。
 しかし、夢の中の父は優しかった。体が弱い筈の母が寝込むことなどなかったし、どこか冷たい眼差しを向けてくることがあった使用人とは記憶の中よりずっと親しく、アッシュは彼と婚約者の王女と三人で何度も笑い合っていた。そして、敬愛していた剣の師匠がアッシュを誘拐することもなかった。
 夢の中で、アッシュはルークのままだった。ルークのままでいることが出来た。
 本当に幸せな夢だったと思う。あの頃アッシュが大切にしていたものを、何ひとつ失いはしなかったのだから。
 けれど何かが足りない。違和感を覚え、その何かを探そうとしたところでアッシュは目を覚ましたのだ。
「……ちっ」
 胸の奥に残ったままのもやもやに、アッシュは舌を打つ。まるで睨みつけるようなその鋭い視線は、薄暗い天井に飲み込まれた。時計を掴み取って短針が示す数字だけを確認すると、放り投げるようにして元の場所へ戻す。ゴトンと倒れたような音は耳に入ってはいたが、無視を決め込んだ。
 ――一体、何が足りなかった?
 夢の違和感が気になって仕方がない。再び目を閉じようにもすんなりと眠れそうになく、アッシュは体を起こした。カーテンの隙間から漏れる光を、じっと見つめながら思考を巡らせる。幸せだった筈だ。一体何が不満だったというのか。
 そこまで考えて、アッシュはを振る。所詮、夢は夢でしかない。現実とは違う。
 そもそも今現在、夢に縋りたくなるほどの不幸を感じているわけでもない。色々と思うところもあるにはあるが、両親と共に故国で暮らしている。幼なじみの王女とは仲良くやっているし、時々顔を見せる元使用人の青年とも昔よりは親しくなれた、気がする。それに――。
 続けてアッシュが脳裏に思い描いたのは、自分と瓜ふたつの存在。あれほど憎んでいた筈のルークとも、一緒に暮らしているのだ。そしてそのことに、不満を感じてもいない。
 月が雲に隠れてしまったのか、カーテンの隙間から漏れる光が弱々しいものとなる。その瞬間、アッシュはハッと目を見張った。夢の中で感じた違和感の正体に、気付いたのだ。
 ――そうだ、あいつがいなかった。夢の中で、アッシュはルークのままでいることが出来た。つまり、己のレプリカが存在しなかったのだ。
「…………」
 光はまだ弱いままだ。関心をなくしたようにそこから目を離したアッシュは、おもむろにベッドを降りた。

 中庭に出ると、雲から月が顔を見せていた。思いのほか明るい夜だ。いくつか流れている雲のうち大きめのものを見上げながら、アッシュは大きく息をつく。
 こんな深夜に顔を合わすとは思ってもいなかったのだろう。先ほど廊下で会った見張りが大袈裟に鎧を鳴らして驚いたのには、思わず苦笑してしまった。目が冴えたので散歩をするという旨を伝えると、屋敷の外には出ないようにと釘を刺されてしまったが、元より出るつもりはなかったので素直に頷いておいた。
 花壇の花を一瞥し、アッシュは歩を進める。中庭にある離れ――ルークの部屋へと向かう為だ。違和感の正体を知っても、もやもやは胸の中に居座り続けている。だからせめて、その原因を直接どうにかしてやろうと思い立ったのだ。ルークからしてみれば完全な八つ当たりだろうが、アッシュには関係ない。
 目的地に近づいたところで、歩みを止める。こんな時間だ、おそらく眠っているだろう。さすがに叩き起こすのは気が引ける。なるべく物音を立てないように、静かに窓の方へと向かった。カーテンが閉めきられていない窓から、こっそりと中の様子を伺う。だが、ベッドに部屋の主の姿はない。
「……?」
 再び雲が月を隠してしまう。目を凝らしてみるが――ルークはどこにも見当たらなかった。
 ひんやりとした風が吹く。大きくなるもやもやに、アッシュは足早に移動するとドアを叩いた。
「おい、いないのか」
 もしかしたら見落としてしまったのではないかと声を掛けるも、応答はない。時間が時間なだけに、これ以上大きな声を出すのは憚られる。期待せずにドアノブに手を掛けると、ドアは呆気なく開いた。鍵は掛けられていなかったのだ。
 部屋の中に足を踏み入れたアッシュは、室内を見回す。けれど、やはりルークの姿はない。
 ――あの屑、こんな時間にどこに行きやがった!
 心の中で吐き捨てる。こんな時間に勝手に訪ねてきたことなど棚に上げ、アッシュは苛立ちに空っぽのベッドを睨みつけた。それでも一向にルークが戻ってくる気配はない。
 溜息をひとつして、アッシュは少しだけ待ってみようとベッドに腰を下ろすことにした。その際に触れたシーツは、すでに冷たくなっている。枕にも触れてみるが、温もりは残っていない。少なくともルークが部屋を離れたのはついさっき、というわけではないようだ。
「………」
 途端に心がざわつく。それとは対照的に静寂が流れ続ける室内を、やわらかな月の光が照らし出した。明るくなった足元に目を落とせば、そこには夢の光景が鮮明に蘇る。
 微笑みを向けてくれる両親、楽しそうに笑う幼なじみ達、優しい笑みを浮かべる師匠、そして、幸せに顔を綻ばせる一人の少年――いつか、こうなりたいと……こうなりたかったと、アッシュが望んだ夢。
 その中にルークの姿はなかった。当然だ。自分の居場所を奪ってしまったレプリカなど、アッシュが望む夢の世界にまで存在していい筈がない。
 顔を上げる。そこにも、夢と同じようにルークの姿はなかった。レプリカがいないことを、かつてのアッシュであれば喜んでいただろう。だが――。
 だが今のアッシュの表情は、決して明るいものではなかった。もしも、このままルークが戻ってこなかったとしたら……ルークの存在が消えてしまったとしたら、夢の中と同じようにアッシュは笑うことが出来るだろうか。
 月明かりが弱くなる。たちまち、あたたかな夢は消えてしまう。けれどもう、夢見ていた子供の頃とは違うのだ。
 部屋を出ようとアッシュが立ち上がったその時、突然ドアが開いた。
「うわあっ!? ……な、何でそんな所に突っ立ってんだよ」
 薄暗い部屋に浮かび上がるシルエットに、帰ってきた部屋の主は悲鳴を上げた。今が夜中だというのを思い出したのか、彼は慌てて声を潜めると片手でドアを閉める。アッシュは自分とよく似た顔を呆然と見返していたが、ルークが一歩近寄ってきたところで我に返った。
「てめぇ……どこに行ってやがった!」
「な、何だよ。何で怒ってるんだ??」
 ずいっと詰め寄ったアッシュに、ルークは戸惑ったように後ずさる。が、すぐに背中がドアにぶつかった。観念したように大きな溜息を吐き出してから、彼はゆっくりと口を開く。
「えっと、一時間くらい前だったかな? 何か、急に目が覚めちまって……寝直そうにも眠れねーし、喉も渇いてたから水でも飲もうかと思ったんだ。そしたら、途中で父上に会ってさあ」
「父上に?」
 思わぬ人物の登場にアッシュがつい聞き返すと、ルークは大きく頷いた。月が部屋の中をほんのりと明るく染める。
「うん、何か父上も眠れなくなっちゃったらしくってな。……さっきまで、一緒にホットミルク飲んでたんだよ」
 目の前の人物と父が仲良くホットミルクを飲んでいる姿を上手く思い浮かべることが出来ず、アッシュは眉を寄せる。するとルークは満足げに笑った。
「意外だろ! しかもホットミルク作ってくれたの、父上なんだぜ」
 父上が……? アッシュは絶句する。だけどそれも仕方がない話だ。アッシュが知る父はいつも厳しい表情で、そして、ほとんど自分と関わりを持とうとしない人物だったのだから。
 そんな父が、息子の為にホットミルクを入れたというのだ。にわかには信じられずに、つい疑いの眼差しを向けてしまうと、ルークは苦笑を返してくる。複雑なこの気持ちは、彼にも分かる筈だった。
「やっぱ信じられない……よなぁ。俺も妙に緊張しちまって、あんまり話せなかったんだけど……」
 そこでルークは少しだけ悔やむように目を伏せたが、次の瞬間には笑って言った。
「でも、良かった! 何て言えばいいのか分かんねーけど、とにかく良かったんだ」
「……何だそれは」
 呆れて肩を竦めながらも、アッシュも何となくは理解していた。目の前のその笑顔を見れば、分かる。たとえろくに会話がなくとも、ルークと父の間には穏やかな空気が流れていたのだろう、と。だからもう、それだけで満足だったに違いない。
 アッシュは一歩横に退いて、ルークに道を譲る。
「ああ、けど――」
 自室だというのに部屋の隅へと追いやられていた彼は、ようやくベッドに向かおうとした足をすぐに止め、再びアッシュに顔を向けた。
「起きてたんなら、お前の分も作ってもらえば良かったなあ。ホットミルク」
 向けられた笑顔に、アッシュは押し黙る。部屋の中は、やわらかな光に包まれたまま。月はまだ雲に隠れない。それでももうあの夢は、現れなかった。
 けれどいつか夢にまで見た、ずっと望んでいたそれが、確かに今、アッシュの目の前にある。
「アッシュ? どうかしたのか。……つーかお前、結局何でここにいるんだ?」
 首を傾げるルークを無視してすたすたと窓の方へ向かうと、勢いよくカーテンを引っ張る。おい、と驚きとも抗議ともつかない声が聞こえたが、気にせずカーテンを閉めた。
「明るいと寝れねぇんだよ」
 僅かに浮かぶ細い光の筋だけを頼りに、アッシュはベッドに転がった。闇に飲み込まれた室内に溜息の音が漏れる。
「何だよ、ここで寝んのかよ。……別にいいけどさ、狭くても知らねーからな」
 そう言いながらルークもベッドに入ってくる。一人で寝るには充分大きなベッドとはいえ、大の男が並んで寝るには少々狭く感じる。それでも体を僅かに端に寄せただけのアッシュに苦笑をこぼした彼も、ベッドを降りようとはしない。
 少しだけ窮屈そうに、二人は肩を並べる。
「……狭い」
「お前なあ」
 溜息混じりの返事を、アッシュは体を背けて聞かなかったことにした。そのまま眠ってしまおうとしたところで、手が伸びてくる。背中に当たる体温は、夢の中で感じた温もりよりも、ずっとあたたかい。
「お、案外あったけぇ!」
「おい、くっつくな。うざい」
 アッシュは文句を口にしながらも、子供のように笑っているルークの腕を振りほどくことなく、一度だけ窓の方に目を向けた。光の筋が薄くなる。外はまだ、暗いようだ。
 おやすみ、とすぐ近くから聞こえてきた声に、まぶたを下ろす。夜が明けるのは、もう少しだけ先だ。
(by sakae)


END
(10-03-29初出)

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