優しい時間

※無断転載・AI学習を固く禁じます。
 夕日が窓の外を赤く染めている。知らないうちに眠っちまってたみたいだ。頭がぼんやりする。さっき――いや、外の様子からすると一時間は前だろうか。昼間見た時と同じように窓は開かれたままだった。入ってくる風は少し冷えていて、肌寒く感じる。
 布団を掛けてて良かった。こんなことで、風邪なんかひきたくない。そう安堵の息をついてから、俺は首を捻った。布団なんて掛けてただろうか。
 確か、……ああそうだ。ちょっとずつ記憶が蘇ってくる。昼間は少し暑かったんだ。それで俺は、布団を隅に追いやったベッドに寝転がって、本を読んでた筈だ。読みかけのその本は、すぐ側で俺と同じように寝ていた。いや、同じように、というのは違うか。俺と違って寝相が良かった。良すぎるだろう。本は綺麗に閉じられてしまっている。マジかよ。
 本を手に取ってパラパラと捲ってみても、どこまで読んでたか分からない。元々面白れーと思って読んでたわけじゃないから、読む気なんて簡単に失せてしまった。再び本を閉じると遠くに追いやる。パタンと乾いた音がした時には、完全に視界から消えていた。床に落ちたっぽいけど、知らねー!
 俺の口から漏れたのは、大きな溜息。知らんふりを決め込む為に目を閉じた。
 庭の木が風に揺すられて、涼しげな音色を奏でている。何だか心地好い音だ。このままもう一度、眠ってしまいたい。だけど、きっともうすぐ夕食の筈だ。いつものようにメイドの誰かが呼びにくるだろうから、起きとかねーとな。じゃないと、またあとからアッシュに怒られちまう。
 そこまで考えて、俺はハッと目を開いた。――そういやここって、アッシュの部屋じゃなかったっけ?
 そうだ。暇になったから構ってほしくて来たってのに、本を読むから邪魔をするな静かにしていろ、とか言われて相手にしてもらえなくって。そのうえお前は勉強でもしてろと音素がどうのこうのと書かれてる本(しかもジェイドが書いたやつだし)まで押しつけられたんだった。ん? でも本を読んでるにしたって、静かすぎないか。
「……アッシュ?」
 声を掛けても反応はない。俺がベッドを占領したから、怒っちまってんのか? 試しにもう一度呼んでみても、声が返ってくることはなかった。
 やばい。もしかしてかなり怒ってる? そのせいで部屋を出ていっちまったんじゃ……と一瞬考えたものの、気配はあるから(ついさっきまで気付かなかったけど)それはない。
 ってことは、無視かよ。アッシュがいた筈の机の方へと、おそるおそる顔を向ける。目が合った瞬間に、怒鳴られるぐらいは覚悟しておかなきゃな。
「アッシュ、ごめん! 気付いたら寝ちまって……って、あれ?」
 予想どおりアッシュはそこにいた。けれど俺に罵声を浴びせてくることも、睨みつけてくることもなかった。それどころか、こっちを見ようともしない。
 俺は押し殺していた息を、ゆっくりと吐き出した。
「何だよ。……お前もか」
 自然と声は小さくなる。体を起こすと、改めてアッシュに目を遣った。彼は本を開いたまま、机に上体を預けて眠っている。居眠りなんて珍しい。もしかしてすげぇ疲れてるとか? そう思ったら不安になって、俺は急いでベッドを降りて側へ寄った。
 ――本当に、珍しい。すぐ近くから見下ろした寝顔に、思わず笑みがこぼれる。所々下りてしまっている前髪。静かに上下する肩。いつも不機嫌そうに寄せられてる眉間のしわはどこへやら。腕を枕代わりにして眠っているアッシュの表情は、穏やかそのものだった。不安なんて吹き飛んでしまうほどに。
 起こしてしまわないように気を付けながら、そっと彼の髪へと手を伸ばす。お前も、安心してくれてたりするのかな。緩く髪を撫でてやると、アッシュの口元が僅かに綻んだように見えて、どくんと胸が高鳴る。
 どうせこいつのことだ。起きてる時に訊ねたところで、素直に答えてくれる筈がない。だから声には出さなかった。でも、少なくとも俺は幸せだ。だから今は、これだけで満足。一房手に取った髪にくちびるを寄せる。
 静かな部屋の中で、風に揺らされた木々の音だけが時折強く存在を主張していた。
 自分一人だけじゃないと、同じ空間にアッシュがいるのだと知った瞬間から、この静けささえ愛しく思えた。静寂は退屈で、寂しいから嫌いだ。だけどそこに彼が存在しているだけで、不思議と安らぎすら感じられるようになる。だからさっきだって、気持ち良く眠ってしまったんだろう。
 声を聞きたくなったりして、時々もどかしくはなるけど、それでもアッシュと過ごす静かな時間は好きだった。以前の俺達の関係からは、到底考えられないような感情だろうな。おかしくなって、笑う。
「なあ」
 アッシュが目覚める気配はない。それでも良かった。いや、だからこそ俺は言葉を続けられるんだと思う。
「俺、今はお前といると幸せで……。お前といられる時間が好きなんだ。だからさ」
 我儘だと言われるかもしれねーし、迷惑がられてしまうかもしれない。それでも俺は。
「ずっと側にいてもいいかな? ――お前の、一番近くにいたいんだ」
 独り占めなんて出来ないのは知ってるから、せめてさ。アッシュの額に掛かった髪をそっと掻き上げると、口づけた。風が木をざわめかせる。途端に何だか恥ずかしくなって、慌てて体を離すと顔まで背けた。
 何言ってんだよ、俺は! 顔が熱い。落ち着かない。マジでこんなの聞かれなくて良かったぜ。次第に落ち着きを取り戻していく頭でそう考えて、再びアッシュに目を向ける。すると、今度はばっちりと目が合った。俺と同じ色の瞳と……――ッ?!
「なっ……! おまっ、起き!?」
「……」
 動揺する俺を置いてのんびり上体を起こしたアッシュは、鬱陶しそうに前髪を掻き上げる。その間にも俺の心臓はバクバク言っていて、破裂しそうな勢いだ。え、何だよ。
「いっ、いいいつっ?!」
 いつから起きてたんだと言いたかったのに、上擦った声を出すのがやっとだった。情けねえ。そんな俺をちらりと一瞥して、アッシュは机の上で広がったままの本に手を伸ばす。
「案外、独り言が多いな。お前」
 多分、ばっちり聞かれてた。そういうことだよな、これ……。体から力が抜け落ち、俺はがっくりとうなだれる。恥ずかしい、かなり恥ずかしい!
 視界の端で、音もなく本を閉じたアッシュが顔を上げる。その双眼が見据えているのは俺の向こう。どうやら窓の外みたいだ。
「……夕暮れ時か」
 ぽつりとアッシュが呟く。俺も振り向いて、外を見る。夕日の色に染まっていた庭は、薄暗くなりつつあった。この分だと、あっという間に夜になるだろうな。しばらく眺めているうちに、背後の気配がすっと動くのを感じた。振り返ってみれば、アッシュはすでに立ち上がっている。
「アッシュ?」
 無言のままドアまで行ってしまった彼に声を掛けるも、返事はない。そのまま部屋を出るつもりなのか。だったら俺もと一歩踏み出そうとしたその瞬間、部屋の中を照らしていた明かりが消えた。急に薄暗くなってしまった部屋に、夜の気配がよりいっそう近づいた気がする。
「お、おい……?」
 明かりを消したアッシュが、こっちに戻ってくる。何か忘れもんか? そう訊ねようとした俺の前をアッシュはすたすたと通りすぎ、ベッドの方に進んでいく。
「って、また寝んのかよ! もうすぐメシ――」
 てっきり二度寝するのかと思って慌てて近づくと、俺と向かい合う形でベッドに腰を下ろしたアッシュは少しだけ顔を背け、じっと窓の外を眺めた。静かに深まる夕闇が、彼の真っ赤な髪を暗く染めている。夜の闇とはちょっと異なる、暗い世界。
 ああやっぱり。アッシュと一緒だから毎日きっちり訪れる夜でさえ、こんなにも待ち遠しくなるんだ。その一方で、このまま時間が止まっちまえばいいのに、なんてことも思う。
 だってそうすれば、このままずっと一緒にいられる気がして――。気付けば俺は、ベッドに片膝をついて、アッシュを抱きしめていた。
「いてぇだろうが、馬鹿!」
 ぐっと肩を掴まれて、押し返される。それから、やっぱりいつもより暗いの瞳に睨まれた。それを見つめ返す俺の瞳も、きっと同じ色をしてるに違いない。
「ごめん、けど!」
 誰よりも、一番近くにいたいのに。口を尖らせると、アッシュが顔をしかめる。呆れられちまっただろうな。
「ったく、てめえは……」
 盛大な溜息のあとに肩を掴んでいた手が外されたのをいいことに、俺は再びアッシュの体に腕をまわした。今度は抵抗はないから、本気で嫌なわけじゃないらしい。暑苦しいとひとつ文句をこぼしたきり、アッシュは口を噤む。俺も黙ったままだった。
 ひたすら流れる沈黙。自分達の呼吸の僅かな音さえ、部屋中に大きく響いてるような気がする。だけど、決して気まずくはなかった。
 今なら言葉なんかなくても、気持ちが伝わる気がした。というより、伝わってたらいいのにって思ってる。そして、今この体に感じてる自分のじゃないあたたかな熱が、その答えならって――。
 外はもうほとんど暗くなっていた。すぐそこに夜がある。そろそろ、誰かが俺達を呼びにくる頃だ。きっとそれを合図に、この静かなひとときは終わってしまう。
 同じ家に住んでるんだから、よっぽど多忙じゃない限りは毎日顔を合わせるし、父上や母上との食事の時間だって今は好きだけど、少しだけ……いや、かなり名残惜しく感じる。
「……あとで、ちゃんと寝れっかな? 寝過ぎちまったかも」
 アッシュの体から腕を外す。名残惜しくてもしょうがない。時間は止まってくれはしないから。それでも未練がましく髪に手を伸ばすと、アッシュが目を細める。
「また腹出したまま寝るつもりじゃねぇだろうな?」
「え? あ、ひょっとして……」
 布団掛けてくれたのって。俺が口を開こうとしたその時、ドアの方から小さな音が聞こえた。一定のリズムで段々とこっちに近づいてくるのは、誰かの足音だ。それを認識すると、つい溜息を漏らしていた。もうおしまい、か……。
「……行こう。メシだ」
 ならせめて、自分から終わらせた方がずっとマシだ。そう思って立ち上がろうとする俺の腕を、アッシュがぐいっと引っ張ってくる。
「いっ……!」
 俺が痛みに顔を歪めたところでアッシュは気にする素振りもなく、片手を後頭部へとまわしてくる。強引に引き寄せられ、一気に互いの顔が近づいた。さっき俺が抱きついた時よりも、もっと近くに彼がいる。
「お、おい……なに――」
 俺は呆然と目を見開く。続きを発することなんて、出来なかった。くちびるを塞がれてたのは、多分、ほんの僅かな間だけなのに。
「――時間切れ、だな」
 くちびるを離したアッシュが、いたずらっぽく笑う。すぐそこまでやってきていた足音が、ぴたりと止まった。静寂に包まれた部屋の中、ノックの音だけが大きく響き渡る。
(by sakae)


END
(08-07-31初出)

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