水たまりの記憶

※無断転載・AI学習を固く禁じます。
 ひとつしかない窓はきちんと閉めきられているにもかかわらず、入ってくる雨音は大きい。先ほどまで小降りだった雨が本格的に降り出してきたようだ。この分だと、仲間達はしばらく戻ってこないだろう。
 やっぱティア達と一緒に、街に出れば良かった。ルークは寝返りを打ちながら、心の中で呟く。
 今更だが退屈で仕方がない。いっそのこと、ガイと共に城に残っておけば良かっただろうか。――いや、それはないか。ブウサギ達だけでなく、その飼い主の面倒まで押しつけられた哀れな親友の姿が目に浮かび、思わず苦笑を漏らす。
 ルークは寝そべったまま窓の外に目を遣った。見えるのは、まだ昼を過ぎたばかりだというのに暗い色の空と、降りしきる雨ばかり。一時間ほど前、城を出た時には晴れていたから通り雨だろうか。
 買い出しに行った女性陣は、今頃雨宿りにとお茶でもしているに違いない。仕事を片づけたいと言っていたジェイドや、それに付き合わされているガイは、当分やってこないだろう(彼らは城に泊まることになるかもしれない)。とにかく退屈だった。
「おいブタザ……」
 言いかけて、ルークは口を噤む。ミュウならティアが一緒に連れていったのだと思い出したからだ。
 つまんねーの。吐き出した溜息を掻き消すかのように、雨が勢いを増していく。部屋の中は静かすぎるくらいだというのに、外はひたすら騒がしい。
 まるで自分一人だけが、異空間に隔離されているようだった。この静かな世界に存在するのは、ルークただ一人きり。
(変わってねえなあ、俺)
 ふと、屋敷で軟禁されていた頃を思い出していた。まだろくに言葉を喋れなかった頃は、雨の日は雨の日で楽しかった記憶がある。新しい言葉を覚えたり本を読んでもらったり、落書きをしたりとやることがたくさんあったから。
 だが剣の稽古が趣味になってからは、ルークにとって雨の日は、ただ退屈な日でしかなくなってしまった。雨のせいで庭が使えなくなっても、修行をしたいと駄々をこねてガイやメイド達を困らせたり、今のように暇だとベッドの上でダラダラと過ごすことが多かったのだ。
 進歩してねぇな。過去の自分から目を逸らすように、視線を動かす。白色の天井はよく見ると、所々黒く汚れていた。
 ――何度目だっけ。
 不意に浮かんだ疑問。この雨は、自分にとって何度目の雨なのだろう。だけど答えは出てこない。いちいち数えてなどないから、当たり前だ。
 今でこそほぼ毎日つけている日記は、最初の頃は面倒くさくて書かないことも頻繁にあったし、天気を記していないことも多い。最初から読み返したところで、正確な数字は分からないだろう。
 それでもルークには、ひとつだけ思うところがあった。もしかしたら、これが――。
『おい』
「――ッ!」
 突如生じた痛みに押さえた頭の内側から、響き渡るような声。こんな芸当が出来るのは、ルークと音素振動数が同一である第七音素の集合体と、もう一人だけだ。
「……何だよ、いつも急すぎだっつの」
『うるせえ。てめぇの都合なんぞ知るか!』
 被験者の傲慢な態度にさらなる頭痛を感じつつも、今更だと諦めて用事が告げられるのを待つことにする。言い合いになって会話が長引く分、無駄に頭が痛くなるのはルークの方なのだ。
『お前、今どこにいる』
 ルークを通じて同じ景色を見ている筈のアッシュだが、さすがに手掛かりが薄汚れた天井だけでは、現在地までは把握出来ないらしい。グランコクマに滞在していることを告げると、彼はそうかと素っ気ない返事をしたきり何故か黙り込んでしまった。
「アッシュ?」
 一体どうかしたのかとルークは呼び掛ける。回線が繋がれた直後と比べれば幾分かマシになったものの、頭痛はまだ続いているから切られてはない筈だ。だから何か用があるのだろうと思ったが、アッシュが何か言ってくる気配はない。
「アッシュ? なあ、聞いてんのかよ」
『……聞こえている。いちいちうるさい屑だな』
「お前なあ……」
 刺々しい返答に、こっちは痛いんだからなと言ってやりたいのを堪え、ルークは再び窓の外に目を向けた。少しだけ雨の勢いが治まった気がする。
『雨、降ってるのか』
「え? ……ああ、うん」
 返事をしながらルークは体を起こす。何となく、アッシュが雨を見たいのだろうと感じたのだ。再び黙り込んでしまった彼と共に、雨音を聞く。
 そういえば初めて彼の顔をまともに見た時も、同じように雨が降っていた。
 あれからまだ一年も経っていないのに、ひどく遠い日の出来事に思えてならない。この短期間でルークの周りだけでなく、世界中でいろんなことがありすぎてしまった。
『……お前はどうするつもりなんだ』
 感傷に浸っていると、ようやくアッシュが口を開いた。しかし急にどうすると言われても、何のことだかさっぱり分からない。ルークが首を傾げたのが伝わったのか、改めてアッシュは訊ねてくる。
『ヴァンを倒しローレライを解放したあと、お前はどうするつもりだと聞いている』
「どうするって、俺は……」
 すべてが終わった時、俺はきっと、もう――。
 震えそうになるくちびるを咄嗟に噛みしめ、ルークは小さく首を振った。頭の中で舌打ちが響く。
『決めてないのか』
「……うん。まだ決めてない」
 言い淀んだのをアッシュはそんなふうに捉えたらしく、だったらそういうことにしておこうとルークは否定しなかった。
 この旅が終わったあと、仲間達はどうするつもりだろうか。次にルークが考えたのは、そんなことだ。ミュウ、あいつは森に帰るのかな。そう遠くない未来の仲間達の姿を想像して、微笑む。きっとみんな、忙しい毎日を送るに違いない。
 アッシュも、そうだ。彼だってナタリアと共に――。
『いいかレプリカ。お前はバチカルに……あの屋敷に戻れ』
「――え?」
 今度こそアッシュも、バチカルに戻る筈だ。そう考えていた矢先に彼自身が発した言葉に、ルークの思考は一旦停止した。――何だよその言い方、アッシュお前、まさか。
 ざあざあと降り続ける雨の音が、いやに大きく感じる。
「……アッシュはどうするんだ。お前こそバチカルに帰ってやれよ。父上も母上も喜ぶぞ」
 やっとの思いで声に出したのに、すぐさま不機嫌そうな声が返ってくる。
『前にも言った筈だ。俺はもう、あそこに戻るつもりはない。お前が戻れ』
「……俺だって、決めてないって言ってるだろ」
 勝手なことばっか言うなよ! 本当なら、ルークはそう怒鳴ってやりたかった。けれど先に声を荒らげたのは、アッシュの方だった。
『ふざけるなっ! お前は〝ルーク〟だろうが! お前にはファブレ家の人間としての――』
「勝手に生き方押しつけんな! 大体、俺はッ……!」
 ――すべてが終わった時、俺はきっと、もうこの世界からいなくなってる! だから……帰りたくっても帰れねぇんだよ。
 続きを叫ぶ代わりに殴りつけた枕からはボスッと何とも間抜けな悲鳴が上がり、ベッドも叫ぶように軋んだ。ここが安宿だったなら、ベッドは簡単に壊れていたかもしれない。
 そのまま会話は途切れてしまった。
 アッシュに当たったところで何かが変わるわけでもない。当然、物に当たっても、だ。一度大きく深呼吸をすると、ルークはベッドを降りた。雨を見るのも、これで見納めになるかもしれない。そう思ったから、窓際に立ってじっくりと外を眺める。窓を突き抜けてくる雨音は、大分小さくなっていた。
『――窓、開けろ』
 意外にも回線は途切れていなかった。気の短いアッシュのことだから、とっくに切ったものだとばかり思い込んでいたルークは、驚きながらも言われるままに窓へ手を伸ばす。途端に涼しい風が室内に入ってきて、重苦しい空気を薄めていく。アッシュがふっと息をついたのが分かった。不思議とルークも、高ぶっていた感情が治まっていた。
「なあ」
 しばらく風に当たってから話しかける。まだ不機嫌そうではあるが「何だ」と返事が戻ってきて、ルークは自然と頬を緩めた。怒鳴り合いをした直後にそのまま普通に会話するなんて、珍しいことだった。
「お前は今どこにいるんだ?」
『……ケセドニアだ』
「ケセドニアか。じゃあ、雨降らないな」
 短い返事を聞くと、ルークはおもむろに左手を窓の外へと突き出した。雨粒がぶつかってくる。想像していたよりも、ずっと冷たい。
『たまには降るがな』
「マジかよ! 俺、砂漠で雨降ってるのなんて見たことねぇや」
 滅多に雨が降らない砂漠の街で、自分を通じてこの雨を見ている人間がいるのかと思うと、何だか妙な気分だった。
 ルークの腕を伝い、雨が床にぽつぽつと落ちていく。あとで拭いておけば問題ないだろうと、気にせず室内に雨を招き入れる。
「アッシュはさあ、今まで何回雨を見たか覚えてるか?」
『……何回?』
 質問の内容にアッシュは少し驚いたのか、僅かに声のトーンを上げる。
『覚えてねぇな。数えるものでもないだろう、普通』
「うん、やっぱそうだよなぁ。……あ、じゃあさ、ケセドニアの人達ならどうかな?」
 元来雨が少ない土地の者なら、もしかしたら覚えているのではないか。そう思って訊ねれば、アッシュは少し考え込むように「どうだろうな」と前置きしてから、静かな声で続ける。
『確かに年に数回しか降らない場所とはいえ、わざわざ数えてる奴がいるかは分からん。そんなことをするのは、せいぜいガキくらいじゃねぇのか』
「んー、そっか。まあ、そういうもんなのかもな」
 ルークは溜息混じりの言葉を吐き出した。すると、アッシュが不思議そうに訊ねてくる。
『お前、何でそんなことを気にしている?』
「何でって、……何でだろう」
 訊かれて初めて、ルークは自分でもどうしてだろうと疑問に思った。別に雨は好きでも嫌いでもない。いや、地面が濡れて歩きにくくなったりする分、どちらかといえば嫌いかもしれなかった。それなのに、どうして急に。
『ところで、放っておいていいのか』
「へ……? うわっ!」
 何がと訊くより早く、ルークは外に伸ばしていた手を引っ込める。
 着けていた手袋がびしょ濡れになっているのはともかく、知らないうちにカーテンからも水が滴り落ち、足元にはすっかり水たまりが出来上がっていた。
 これはちゃんと片づけておかなければ、仲間達だけでなく宿の主人にも嫌な顔をされてしまうだろう。濡れていない方の手で頭を押さえる。
『何やってんだ、屑』
 呆れたようにアッシュが言う。まったくだ。ルークも深々と溜息をついた。
 掃除しないとな。そう思って床に視線を落とした次の瞬間、ルークはあっと大きな声を上げる。
「そうか。俺、勿体ないって思ったんだ」
『……はぁ? おい、何の話だ』
 そうかそうかと一人納得していると、わけが分からないとアッシュに説明を促される。
「だから、さっきの話だよ」
『……雨の話、か?』
「うん。何て言やぁいいのかな……。今までも雨って普通に何回も降ってたわけだろ? 俺がずっとバチカルにいた頃だって、雨は降ってた。……けど俺、あんま覚えてなくって」
 そこまで言って、ルークは首を左右に振った。覚えてない、という表現は何か違うような気がしたのだ。
「記憶に留めてなかったんだ。ただ、眺めてただけだった」
 初めて雨を見た日。雷を不思議に思った日。庭に出来た水たまりで遊んだ日。本を読んでもらった日。することもなく退屈だった日。――そして、初めてアッシュの顔を目にした日。
 雨が降っていた日のことを、思い出せるだけ思い出していく。
 だけど思い出せたのは想像していたより、ずっと少ない。それよりも、もっともっと雨は降っていた気がして。今日で最後の雨になるかもしれないと考えると、たくさん見ておけば良かったと、もっと覚えておけば良かったと、そう思ったのだ。
「だから何か、すげぇ勿体ないことしてきたなって……今更、なんだけどさ」
 ――本当に、今更な話だ。ルークは苦笑する。
『別にお前だけじゃない。誰だって特別なことでもない限り、そんな些細なこと覚えてねぇよ。それに、雨は何度でも降るものだからな』
「……うん」
 そうだ。これからも雨は降る。たとえルークが消えてしまったあとだって、何度でも降るのだ。
 だから、いちいち数えておく必要はない。――覚えておかなくても、いいんだな。
 小さく笑って、ルークは窓の外を見つめた。ほんの十数分ほど前の勢いが嘘のような、静かな雨だった。
『――けど、最後に降った雨なら覚えてるかもな』
「……?」
 アッシュの言葉に、ルークは顔を上げる。相変わらず雲に覆われてはいるものの、空は明るくなってきていた。この分だと、もうすぐ雨も止むだろう。
『特に砂漠に住んでる連中にとったら、雨は貴重なものだしな。回数は覚えてなくても、最後に降った雨のことくらいは覚えてるんじゃないか』
「……そんなもんかな?」
『多分な。大体、雨が降っていようが晴れていようが、記憶に残るもんは勝手に残る。……嫌でもな』
「そっか。……うん、そうだな」
 確かにそのとおりだと、アッシュの意見に頷く。現に楽しい思い出も、あまり良くない思い出も、ルークは覚えているからだ。それでもいくつもの思い出を忘れてしまっているのだと考えると、何となく雨と記憶は似ているような気がした。
 おそらく大量に降った雨も、時間が経てばいくつかの水たまりしか残さないからだろう。それが蒸発するのと同じように、段々と人の記憶も薄れ、消えていく。
 だがそれだと、最後にはすべてを忘れることとなってしまう。それは嫌だ。ルークはを振って、やっぱり全然似てないと考え直した。
 ――そうだ。全部忘れられてたまるものか。
「アッシュ!」
『な、何だ』
 突然大声を出したルークに驚いたようで、アッシュがたじろぐ。しかしすぐにいつもの調子に戻った彼は、やかましい屑め、と余計な一言を付け加える。いつもならカチンときたり悲しく思うそれも、今のルークには微笑ましくさえ感じられた。
「俺は忘れないからさ」
 何を、とアッシュが聞き返してくるのを遮って、ルークは続ける。
 左手の濡れた感触。雨はまだ、ここにある。
「今日、雨が降ったこと。お前とこうやって話したこと……全部、覚えてるから」
 くすんだ空から落ちてくる細やかな雨は、まるで涙のようにも見える。そしてそれは悲しいものではなく、心を晴れやかにする為に流す涙に違いない。
『……ふん、馬鹿が。勝手にすればいいだろう。まあ俺は、すぐにでも忘れてやるがな』
「お前、本当にひでぇのな」
 アッシュらしいけど、とルークは苦笑を漏らす。
「でもさ」
 すっと持ち上げた左手をゆっくりと閉じて、逃げようとする雨を閉じ込める。この思い出が漏れ出してしまわないように。
「せめて、次に雨が降る時まででいいからさ。……覚えててくれよ」
 次にアッシュが雨を見るのは、一体いつになるだろうか。ルークは想像してみる。明日だろうか。明後日だろうか。それとも、自分が消えてしまった先の未来だろうか。何となく、ずっと先がいい気がした。ずっと先まで、自分のことをひとつでも多く覚えていてほしいと願うのは、我儘だろうか?
 しばらくの沈黙のあと、アッシュが声を出した。珍しく、楽しそうな声だ。
『今からグランコクマに行ってやる』
 思わずルークは吹き出した。どうやらアッシュは、今すぐにでも次の雨を見るつもりらしい。とんだ薄情者だ。
「お前、性格悪すぎだって。――けど、残念だったな」
 視線をしっかりと外へ遣ると彼が舌打ちしたのが聞こえてきたから、ルークはまた笑った。
 だって仕方がない。雨はもう止んでしまったのだ。
(by sakae)


END
(08-05-21初出)

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