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海が近いのだろうか。最初に聞こえたのは波の音だった。
目を開ければ、雲ひとつない真っ青な空がそこにある。その中で時折星のように瞬いているのは、二千年前ユリアが詠んだ星の記憶の結晶――譜石だ。
「――生きてる」
その呟きは、すぐ隣から。同じように大地に身を預け、空を眺めているであろうアッシュのものだ。彼は死んだ筈だった。そして俺も、消えた筈だ。でもアッシュが隣にいることに、その隣に俺が存在していることに、驚きはなかった。
だって波の音を聞いた時から、……いや、それよりもずっと前から知っていたのだ。彼が隣にいることを。
「うん。生きてるんだ、俺達」
一緒にいることを、お互いに知っていた。感じていた。それでも嬉しくて口元を緩めると、応えるように太陽が譜石を輝かせた。綺麗だと、素直にそう思った。
ざざあ、とまた聞こえてくる波の音。少し離れているのか、小さな音だ。
「なあ、アッシュ」
目を空に向けたまま声を出す。流れる雲でもあったなら、目はそれを追いかけていたに違いない。けど目の前に広がっているのは、ひたすら青い世界だった。
「終わったよ」
多分アッシュも空を見つめたままなんだろう。視線を感じない。もしくは、目を閉じているのかもしれない。
「全部、終わった」
こんなにものんびりと空を見るのは、屋敷で暮らしていた頃以来だろうか。けれど、あの頃の俺はまだ知らなかった。空がこんなにも広いことも、綺麗だということも。何も知らないまま、ただ生きていた。生かされていただけだった。
「知ってる。お前がちゃんと見てたからな」
しばらくの沈黙のあと、思い出したようにアッシュが口を開いた。こんなにもやわらかい彼の声を聞くのは、初めてだ。
「そうだな。俺が、見てたから」
俺を通じて、アッシュもすべてを見ていた。――俺達は、ひとつになっていたから。途端にその顔が見たくなって、俺はようやく体を起こす。思ったとおり、すぐ側に彼はいた。
「アッシュ」
額にかかる真紅の髪を摘み上げると、まっすぐ大空へ向けられていた翡翠の双眼が、俺に向けられる。
ああ、初めてだ。こんなにも穏やかな表情の彼を見るのは。髪を摘んでいた指先でそっと頬に触れてみれば、あたたかい。
「ちゃんと生きてるな」
そう笑いかけると目を細めたアッシュが、俺の髪に手を伸ばしてくる。
「長いな」
「本当だ」
俺の髪は旅を始めた頃のように長く、風になびいていた。ローレライの仕業だろうか? 懐かしいような、新鮮なような、不思議な気持ちだ。
ふと、囁くような静かな声に呼ばれた気がして、顔を動かす。
「………」
黙り込んだ俺を怪訝に思ったのか、起き上がったアッシュも海の方を振り返った。少し離れた所にある、あれは……。
もう一度聞こえてきた海の声に促されるようにして立ち上がったのは、アッシュが先だった。俺もゆっくりとそれに続く。かなり久しぶりに立ったような妙な感覚はあったものの、足取りは案外しっかりしていた。目の前で揺れる鮮やかな紅を追いかけるように、歩を進める。
「……エルドラント、か」
やがて歩みを止めたアッシュが呟く。見上げたそれがエルドラントに間違いないと確信して、俺も隣で頷いてみせた。
俺達の目の前。そこには、かつてのホド島のレプリカがある。いや、正確には〝レプリカだったもの〟だろうか。栄光の大地と呼ばれたそれは、瓦礫の王国と化していた。
「ルーク」
アッシュが俺を呼ぶ。だけど彼の瞳は、瓦礫を映したままだ。
「ヴァンは……あの人は……」
そこまで言って、アッシュは小さく首を振った。握りしめている拳とは対照的に、弱い声。少しだけ震えているような気もする。
「知ってるんだ。……分かってる。それでも」
そうだ。ヴァン師匠の最期は、アッシュも知っている筈だった。
さっきまで、目が覚める直前まで、俺達は記憶を共有していた――ひとつになっていたから。だからアッシュは、自分が死んだあとの出来事――俺が見聞きしたこと――も全部知っている。俺も、アッシュが師匠に抱いていた感情を知ってしまった。
「師匠は死んだよ。俺が、俺達が殺した。……でも」
アッシュが俺を見た。その表情と同じように、彼は師匠に複雑な想いを抱いていた。それは憎しみだとか、敬愛だとか……相反する感情で、俺もその痛い気持ちはよく知っている。
「師匠、最期に笑ってただろ? だから……だから、これで良かったんだと思う。間違ってないって、俺はそう思いたいんだ」
「……そうだな」
ふっとアッシュが笑う。安心したように。だけど少し悲しそうに。寂しい、って表現の方が合うかもしれない。ローレライの力を利用する為のことだったとはいえ、師匠から教わったことは多かった。あの優しさのすべてが偽りじゃなかったって信じたいのだ。アッシュも、俺も――。
流れる沈黙の中、海の囁きだけが大きく聞こえる。
「なあ、アッシュ」
返事の代わりに、アッシュは視線を寄こす。
「エルドラントは……レプリカホドは、本物のホドになれたのかな」
一歩だけ踏み出して、瓦礫に近寄った。潮の匂いを含んだ風が吹き抜けていく。
「レムの塔で消えた人達の中に、ガイの姉上のレプリカがいたんだ」
「………」
「もしかしたら、師匠やティアの家族もあそこにいたかもしれない」
「……お前は」
ぐいっと腕が引っ張られた。振り向くと、怒ったようなアッシュの顔がある。こんな時に何だけど、俺達が着ている服が前と変わってることに気付いた。
ローレライを解放したあと、俺の肉体は一度消えた。意識だけが残って、アッシュと混じり合って……。そして別々に再構築されたから、きっとそのせいなんだろう。多分、髪の毛のことも。
「俺のレプリカだ」
俺の腕を掴んだままの手に力が込もる。睨みつけるように、アッシュが俺を見た。
「けど、……俺じゃねえ」
「うん」
分かってるよ。そう続けても、彼の眉間にはしわが寄ったままだ。
「俺はアッシュのレプリカだけど、アッシュじゃない。お前がお前として生きてるように、俺は俺として生きてるからな」
はっきり言い切るとアッシュが頷いて、腕を解放してくれた。彼はもう、俺を自分の劣化品だと思っていないのだ。それが、すごく嬉しい。
「そうだ。だからたとえホドの民のレプリカがいたとしても、それは本人じゃない。……滅んだホドが蘇ることはないんだ」
だが、とアッシュはまたエルドラントに視線を移して続ける。
「第二のホドを――第二の故郷をつくることは出来ただろうな」
「……師匠がいた。ティアがいた。ガイも、ペールも――」
大地は朽ちた。それと共に、多くの命の火も掻き消されてしまった。
それでも、生き残った人達はいた。たった一握りの人数かもしれないけど、ホドが滅びたあとの世界にも確かに生き続けている人達は存在していた。完全には滅びなかったホド。
壊れた理想卿に手を伸ばす。かつて住んでいたという屋敷のレプリカを、懐かしそうに見ていた親友の顔を思い出した。あいつもきっと、ホドが大好きだったんだろうな。
エルドラントは、とても綺麗な場所だった。もっと歩き回ってみたかった。足を踏み入れたそこが決戦の地なんかじゃなくて、もしも師匠達の第二の故郷だったなら――。
「師匠が望んだのが世界の救済なんかじゃなくて、ホドの復興なら良かったのに」
「……ああ。馬鹿だな、あの人は」
頷く代わりに顔を上げた。夢が大きすぎたんだよ、師匠。
あの日、師匠が溶けていった空は、もう赤くない。その瞳の色に似た、綺麗な青だった。
波の音が聞こえる。潮風も吹いている。そして広がる、深い青。まるですぐ目の前に海があるかのような錯覚を覚える。だが俺達が見ているのは海ではなく、空の青だった。
「よっ、と」
隣からは呑気な声。ちらりと視線を向けると、ぐんと体を伸ばしたルークが欠伸をしていた。間が抜けた様子に思わず苦笑が漏れる。さっきまで真剣な面で、ヴァンやホドの話をしていたとは思えないくらいの変わりようだ。
ヴァン、お前も随分な弟子を持ったもんだな。だけど。
「アッシュ? どうかしたか」
視線に気付いたルークが、不思議そうに俺の顔を見つめてくる。
「何でもねぇよ」
きっと、これでいい。ヴァンだって、自分のしたことを後悔していないだろう。あの人は最期まで、自分が思う正しいやり方で、真剣に世界を救おうとしていた。そして、それが揺らぐことはなかった。
本当は、あの人と同じ道を歩みたかった。少しでも力になりたかったのだ。でも俺は、レプリカ世界を認めることだけはどうしても出来なくて。その為道を違え、剣を交えることとなってしまった。
それでも俺は、後悔はしていない。そう言い切れる。それはルークだって同じ気持ちだろう。だからこそ、俺達はいつまでもあんたに縛られるわけにはいかない。空の彼方で譜石が瞬く。ああそうだ。俺達は今、預言にも詠まれなかった未来を進んでいる最中だった。もっと、もっと先まで進みたい。
きっと同じ想いを抱いているのだろう。目が合ったルークと頷き合った。そのまま俺達は踵を返して、エルドラントに背を向ける。
――さよならだ、ヴァン。心の中だけで、最後の別れを告げる。今はまだ、これだけで充分だ。いつか花のひとつでも手向けることが出来る日が、来るかもしれない。その時もルークと一緒だろうか。想像してみると、その日が来るのはそう遠くないような気がした。
少し歩くとルークが、あっと驚きの声を上げる。
「これって、ローレライの鍵じゃないか!」
「だな」
先ほどは気付かなかったが俺達が目覚めた場所に、特徴的な形の剣が突き刺さっているのを発見したのだ。ローレライ。あいつは相変わらず、よく分からないことをする。
――生きたいか。あたたかい光の中で意識が溶けて混じり合っていた俺達に、あいつは問いかけてきた。
生きたいよ! すぐに答えたのはルークだったと思う。だけどそれを願ったのは一人だけじゃない。俺は一度は死を受け入れたつもりでいた。ルークにすべてを託しても構わないと本気で思っていた。
それでも、もしも生きることを許されるのなら。……いや、たとえ誰からも許されなかったとしても。そうだ。俺だって本当は、まだ死にたくなんかなかった。
――生きたいに決まってるだろうが! そう叫んだ次の瞬間、青く穏やかな世界が広がっていた。
草と土の匂い。頬を撫でるやわらかな風。肉体がある。……生きている。すぐ近くにすっかり馴染んでしまった気配を感じた。二人共、生きている。込み上げてくる喜びにくちびるを噛みしめた時、承知したと告げる声がどこか遠くから聞こえた気がした。
「これ、どうする?」
ルークが剣を指でつっつきながら俺を見る。俺は少し考えたあと、ゆっくりと剣を引き抜いてルークに差し出した。
「お前が持ってろ」
「俺が? つーか、勝手に持っていっちまってもいいのかな」
一応は受け取りながらも、ルークは困ったように眉根を寄せる。
「こんな所に放置しておくよりはいいだろう」
「まあ、確かにそうかもしれないけどさ。別に俺じゃなくってもいいだろ? お前でも……」
「それを持ってたら目立つからな。遠慮する」
「それは遠慮とは言わねーだろ」
深々と息をついたルークは、諦めたように剣を見下ろした。その様子が妙におかしくて、つい吹き出してしまうと、釣られたのかルークも笑い出す。こんなふうにこいつと笑い合う日が来るだなんて、思いもしなかった。
「そうだ! せめて、これだけでも持ってろよ」
言いながら渡されたのは、宝珠だった。わざわざ剣から外してまで渡してきたことに、俺は首を捻る。
「だってお前、行くんだろ? だからお守り代わりに」
「……気付いてたのか」
そう応えた俺に、ルークはゆっくりと頷いてみせる。バチカルに戻る気がないのを、こうもあっさり見抜かれてしまうとはな。もしかすれば、さっきまでひとつになっていたせいかもしれない。
「そうか」
宝珠をしっかり受け取ると、ルークが俺の髪へ手を伸ばしてくる。
「俺、本当はさ……二人で一緒に屋敷に戻りたいって思ってるよ」
髪をとかすように指先で撫でながら、ルークは呟くように小さな声で喋り続ける。
「けどお前の生き方まで、俺には決められないからな」
俺は、何も言葉を返せずに俯く。我ながら自分らしくない。バチカルに戻れば、おそらく父上も母上も俺を受け入れてくれるだろう。ナタリア達だって、きっと喜んでくれる。それは分かっているのだ。だけど。だけど、今はまだ、俺は……。
「アッシュ」
視線を持ち上げれば、ルークが微笑むのが見えた。俺の髪からそっと指を引き抜く。
代わりに目の前に突き出されたのは小指だ。それとルークの顔とを見比べるように視線を動かす。こいつが何をしたがっているのか、簡単に分かってしまう。
「いつか。いつか必ず帰ってくるって約束だ」
「お前……」
指切りが――約束が、嫌いなことくらい知っているくせに。だが怒りは湧いてこない。
「そんな子供騙しに、意味があるのか?」
「分かんねー。けどお前なら、ちゃんと約束を果たしてくれるって、俺はそう信じてるよ」
一向に引き下がる気配がないどころか、ルークはさらに指を近づけてくる。まったく、何て頑固な野郎なんだ。仕方がない。ひとつ盛大な溜息を吐き出してから、俺も手を持ち上げた。そして、小指を絡める。
「約束、してやる」
それだけ言い終わると、すぐさま手を離す。短いが、立派な指切りだ。
ルークが呆気に取られていたのはほんの短い時間だけで、たちまち破顔した。俺も自然と表情が緩くなっていくのが、自分でも分かる。心がすっかり軽くなっていた。こいつには腹が立ってばかりだったってのに。過去の俺には今この胸にある温もりなんて、とても信じられないだろう。
ローレライは地核から、そしてヴァンからも解放された。世界は預言の呪縛から解き放たれた。今度は――俺達の番だ。
「俺、ちょっと寄りたい場所があるんだ。アッシュは?」
そう言って、ルークは渓谷の方に体を向けた。そこはこいつにとって、思い入れが深い場所だったと記憶している。
「とりあえずは、向こうへ行くつもりだ」
俺は、渓谷に向かうのとは別方向の道を見据えていた。特別急ぐつもりはなかったが、別れは多分、早い方がいい。
「ここまでだな」
「……うん。そうだな」
少し残念そうにしながらも、ルークが大きく頷く。俺が行くことを決めたように、こいつにも進む道があるのだ。だから――。
「じゃあな」
互いに一言だけそう告げると、歩き始める。しっかりと自分達の足で、自分達の意志で。
あっという間にルークの足音は小さくなり、すぐに聞こえなくなる。
この広い世界で、俺は今、たった一人きりになってしまった。それがまったく寂しくないかと問われたら、そうとは断言出来ないかもしれないが、それでも振り返るつもりはなかった。この道は預言に詠まれたものではなく、ヴァンが用意したものでもない。俺が、俺自身が決めた道だから。
最後に見たルークの目は、まるで空にある譜石のように輝いて見えた。きっと俺も、同じ目をしているに違いない。希望に満ちた色の目だ。
そういえば、空はこんなにも青いものだっただろうか?
ふいに浮かんだ疑問に足を止めて空を見上げたが、俺はまたすぐに歩き出していた。知らないことがあるのなら、これから知っていけばいい。
(by sakae)
END
(08-03-24初出)
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