※無断転載・AI学習を固く禁じます。
――今日は午後から雨になるでしょう。
さっき見たテレビのアナウンサーはそう告げていたものの、見上げた空からは今にもしずくがこぼれ落ちてきそうだった。
どんよりとした空に、俺の口からは溜息が漏れる。何となく雨は好きじゃなかった。気に入ってる靴も汚れちまうし、何より気分が滅入っちまうからな。
頼むから、俺が帰ってくるまでは持ちこたえてくれよ!
そう願ったところで、きっと雨は降る。この辺りの降水確率は八十パーセントだったから、ほぼ確実だ。
諦めて傘を持っていこうとして、手を伸ばす。先に家を出た、同い年の兄とお揃いの傘。それを見た瞬間、手のひらを返すように考えが変わってしまった。
――学校が終わる頃には、ちゃんと降っててくれよ!
空模様とは正反対にうきうきと踊った心のまま、俺は家を出た。傘は持たなかった。
「……傘を忘れた、だと?」
俺と同じ形の眉がしかめられる。
「急いでてさ」
「この天気でどうして忘れられるんだ! お前は本物の馬鹿だな」
イライラした様子の兄の小言を聞きながら、傘を持ってこなかっただけでそこまで非難しなくてもいいのにって思ったけど、決して口には出さない。言ったら、ますます兄は不機嫌になるに違いないから。
「寝坊したんだよ。んで、慌てて、つい……」
「ちっ。やっぱり叩き起こしておくべきだったか」
適当に言い訳をする。今日は寝坊なんてしてない。それどころか、日直の為にいつもより早く起きた兄の気配に、うっすらとながら目を覚ましていたくらいだ。
「で? どうするんだ。濡れて帰るつもりか?」
兄の視線が外へ移る。俺の願いどおりに、いや、充分過ぎるほどに、天はたっぷりと雨を降りそそいでくれている。
「まさか! 濡れない為に、こうしてアッシュを待ってたんだろ!」
再びこっちを向いた兄の顔は、随分と呆れた様子だ。
日直の仕事で教室の鍵を閉めたり、最後の授業に使われたまま置きっぱなしにされていた教材を教師に届けたりと、帰る仕度が遅れた兄を、かれこれ一時間近くは待ったと思う。その間にも雨脚は強くなっていった。
「誰か他に貸してくれそうな奴はいなかったのか」
「んー、いなくはなかったけど断った」
途中まで入れてやろうかと言ってくれたのは、先輩でもある幼なじみの一人。昔からよく俺の面倒を見てくれているあいつの優しさには感謝したけど、今日はそれを断ってしまった。兄と一緒に帰りたいが為にわざと傘を忘れてきたんだから、仕方がない。
「だってさ、途中までなら結局濡れちまうだろ? この雨だし」
まさか家まで送ってもらうわけにはいかないだろ、ともっともらしいかどうかは分からない嘘をついて、続けて兄に向かって言う。
「だからさ、アッシュ。傘に入れてくれよ!」
「断る」
俺のお願いに、ますます眉を寄せた兄が即答する。マジかよ!
「忘れたお前が悪い。勝手に濡れて帰れ」
「ひでぇ! 俺が風邪ひいてもいいのかよ?」
「幸い馬鹿は風邪をひかないそうだぞ? 良かったな」
意地の悪い笑みを浮かべた兄に、口を尖らせる。ひどい言い様だ。そのまま靴を履き替えた兄は、昇降口を出てしまう。
……本当に一人で帰っちまうのか。
はぁと漏れ出た溜息が、人気のない昇降口に充満していくような気がした。
「おい、何をグズグズしてやがる! まだ帰らねぇつもりなのか」
外から聞こえてきた声に、ハッと顔を上げる。何だよ、待ってくれてるんじゃないか。
急いで外に出ると、傘を差した兄が少し離れた校門の外に立っていた。雨のせいで色あせてしまった世界の中でも、彼の真紅の長い髪は鮮やかなままだ。
「早く来い。置いていくぞ」
「来いって……濡れるじゃん」
雨はさっきよりも、さらに激しさを増しているのだ。兄のいる門まで全力で走ったところで、ずぶ濡れになるのは目に見えている。どうしよう。
ためらっている俺に、再度兄が声を飛ばしてくる。
「少しくらい濡れて来い。次に傘を忘れない為の教訓にしろ」
「何だよ、それ」
やっぱ、ひでーな。諦めた笑みをこぼすと、俺は全力で走り出す。バシャン。途中で片足が水たまりにはまってしまった。最悪だ。
「うう、冷てぇ」
「ハッ! どんくさい野郎だな」
門へたどり着いた時には、距離のわりにひどい有様になっていた。そんな俺を、兄は鼻で笑う。
自業自得とはいえ、むっとして軽く睨みつけると頭を小突かれた。
「帰るぞ」
ようやく傘が差し出されて、頭上の雨が遮られる。
「……うん」
たとえ一人で傘に入ったとしても、濡れてしまいそうな勢いの雨だ。二人で入ればほとんど役に立ちそうにないってことぐらい、兄も分かっていた筈だった。それでも家に着くまで傘は閉じられることなく、俺はその間、冷たい筈の雨をあたたかく感じていた。
(by sakae)
END
(08-02-26初出)
※コメントは最大3000文字、5回まで送信できます