あと少し

※無断転載・AI学習を固く禁じます。
 はあ、とすぐ隣――やや上の方から聞こえてくる、溜息の漏れる音。
「お前は本当に……」
 そこまで言って、アッシュはまた長い息を吐き出した。それ以上は何も言わないで、頭を押さえている。きっと馬鹿だとか、どうしようもない奴だとか、そんな言葉を続けるつもりだったんだろう。確かなのは、俺にとっていい内容じゃないということだけ。
「しょうがねーだろ! 俺は、お前みたいに頭が良くねぇんだよ!」
 イラついていたせいか、思っていた以上に勢いがついてしまったみたいだ。放り投げるように机に置いたつもりのペンはコロコロと転がって、そのまま床に落ち、さらに転がり続けている。
 ……ついてねーな。拾う気にもなれなくて、視線だけがペンを追いかけた。すっと、転がるペンと俺とを遮ったのは、鮮やかな
 ペンを拾ってくれたアッシュは、呆れたような表情のままそれを持った手を、俺の目の前に突き出してくる。
「何をふてくされてんだ、お前は。大体、俺は特別頭がいいわけでもないぞ。普通だ」
「ティアも同じこと言ってたよ」
 頭のいい奴の言うことはみんな一緒だな。ジェイドはともかく……。心の中でそう続けながら、ペンを受け取った。
 今度こそちゃんとそれを載せた机には俺のイライラと、アッシュの頭痛の原因であるノートが置かれている。それも俺の物だ。一週間前、俺の為にと父上が雇ってくれた家庭教師によって書かれた問題以外は、ほぼ白いままのページが開きっ放しになっている。
「どーせ俺は馬鹿だよ」
 また虚しくなって、机に突っ伏した。バサッと音がする。今度はノートでも落ちたんだろう。目は閉じてしまったから見えないけど、もうどうだっていい。
 ……俺だって最初はちゃんとやろうとしたんだ。やろうとしたけど、さっぱり分からなくて、どんどんやる気が失せていった。こんなの言い訳にもならないことぐらい、自分でも分かってるけど。
 あと一時間もすれば教師はやってくるってのに、ほとんど手をつけてない。わざわざ様子を見にきてくれたアッシュが呆れ返るのも、当たり前だと思う。きっと教師にも父上にも、呆れられてしまうに違いない。自分でも、こんなに情けないって感じるんだから。
「ルーク」
 頭上から降ってくる、俺とよく似た同じ声。アッシュのことだから、無視したら絶対に怒るだろう。俺は仕方なく、重い頭を持ち上げた。面倒なのはごめんだ。
 隣というか、机の傍らに例のノートを手にしたアッシュが立っている。少なくとも、怒っているようには見えないけど……。
「何がどう分からないんだ」
「え?」
 いきなりの問いかけに首を捻る。するとアッシュは、ノートを俺の前に置いてペンを手に取った。
「分からないからやってないんだろう? 特別に教えてやってもいい」
 教えるって……アッシュが、俺に? 
 驚きに目を見開くだけの俺に、やる気すらないのかと、アッシュが少し苛立ったような口調で言い放つ。
「いや、ないわけじゃないんだけど……」
「なら、とっとと始めるぞ」
 そう言った彼は、さっそく何やら説明を始めた。それが俺が躓いてしまった問題の解説だと気付いて、慌てて他のペンを取って余白にメモを取る。そんな俺の様子がおかしかったのか、アッシュが笑った。
「お前は本当に馬鹿だな」
 今度は言い切られた。けど不思議と、ムカつきはしない。
「どーせ馬鹿だよ。悪かったな!」
 ちらりと時計に目を遣ると、もう一時を回っていた。時間はあと少ししかない。さあ、一体どこまでやれるだろう?
(by sakae)


END
(08-02-01初出)

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