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開け放たれた窓の外は、一面白く統一されている。ケテルブルクでは当たり前のこの光景も、俺からしてみれば珍しいもので、止まることなく空から降りそそぐ雪に手を伸ばした。
冷てぇ! 触れた瞬間に、雪は俺の体温で溶け出してしまう。残ったのは、濡れてしまった俺の手だけだ。
「おいレプリカ。寒いのに窓なんか開けてんじゃねえよ」
目の前の銀世界のように、冷えた声。その声の持ち主が不機嫌を隠しもせずに俺を睨んでることぐらい、振り返らなくっても分かってしまう。
それでもつい雪を眺め続けていると、聞いているのかと再び怒ったような声が背中にぶつかってくる。
「分かったから、あんま怒んなって!」
仕方ないか。俺は左手で窓際に積もった雪をさらうと、窓と分厚いカーテンを閉めた。そうすれば、白くて冷たい世界は俺の前からなくなった。外の明かりを遮断してしまうと、部屋の中の明かりはテーブルに置かれた小さなランプと暖炉の火だけになって、まだ昼を過ぎだばかりなのに何だか薄暗い。
手のひらで丸めた雪を転がしながら、夜みたいになった室内を移動する。アッシュはもう、こっちを見ていない。風呂から上がったばかりの彼は、ひとつだけあるベッドをイス代わりにして、濡れた長い髪をタオルで拭いているところだった。
「ガキ」
隣に腰を下ろした俺が、雪をボールのように放り投げているのを横目で見たアッシュが、呆れたように呟く。
「どうせまだガキだし」
開き直って笑えば、アッシュはふんと顔を背けた。お前のその態度だって、ガキみたいだぞ。なんて思ったけど、別に喧嘩したいわけじゃないから黙っておく。こいつ、すぐ本気で怒るもんな。
雪玉を高く放り投げると手のひらに着地するより先に、しずくが落ちてきた。
「あ~あ。もう溶けちまった」
みるみるうちに、溶けていく雪玉。元々小ぶりだったそれは、どんどん小さくなっていき、あっという間に水になってしまった。
「外じゃねぇんだ。そんなの、すぐ溶けちまうに決まってんだろうが」
その辺に置きっぱなしにしていたタオルで溶けた雪を拭き取っていると、つまらなそうに傍観していたアッシュが言う。
「じゃあさ、外行こうぜ。外!」
あんなに積もってて寒いんだ。ちょっとやそっとじゃ雪も溶けないだろう。俺はそう思って、提案したのに。
「勝手に行ってこい」
「一人でかよ? アッシュも一緒に――」
「断る!」
間髪入れずに断られてしまった。ちぇっ。一人で雪遊びしたって、つまんねーだけだし。
外に出るのは一旦諦めて、アッシュを抱き寄せる。
「行くんじゃねぇのか?」
「もういいよ」
アッシュに体重を掛けて、そのまま二人してベッドに倒れ込む。その拍子に、ベッドがぎしりと悲鳴を上げた。
「……てめぇがいなけりゃあ、静かでいいんだがな」
直接耳に掛かる、低い声。これ以上ひでぇこと言われたら堪らない。自分のくちびるを押しつけるようにして、続く言葉を塞いだ。
静かになった部屋の中が段々暑くなってきた気がするのは、俺がドキドキしてるからなのかな。そっとくちびるを離すと、今度は手を動かす。
「……ッ!」
さっきまで雪に触っていた俺の手は、すっかり冷たくなっていたらしい。服の隙間から手を差し込んだ途端に、アッシュの肩が大きく跳ねた。
「ごめん」
謝りながら撫でた彼の長い髪も、まだ充分に乾ききっていない。髪の下のシーツが、水分を含んだそこだけ色が変わっていた。
白いシーツの海に、窓の外に広がる白くて冷たい世界が重なる。少し似てると思った瞬間、俺は大きな不安に駆られていた。この雪も、さっきの雪玉みたいに溶け始めてしまうんじゃないかって。
雪が溶けるのと同時に、もしアッシュまで消えちまったとしたら? そして、俺も――。
「……っん! …ふ…ッ」
抱いてしまった不安をどうにか掻き消そうと、またアッシュのくちびるを奪っていた。いつもはあんまりしない、噛みつくようなキス。しばらくして口を離した時には、お互いに息が上がってしまっていた。
それでも俺の不安は拭いきれなかった。
今度は肌にくちびるを落としていく。最初は首筋。それから鎖骨の下に、胸元。さらに脇腹と位置を変えて、僅かな音と共に赤い痕を残していくと、少しだけ安心することが出来た。
もうひとつ腹に付けようとしたところで、ごつんと頭を叩かれる。
「馬鹿が……考えごとなんてしてんじゃねぇ!」
俺を睨みつけてくる翡翠の双眼は、少しだけ潤んでいるように見える。その視線から逃げるように、俺は首を横に振った。
「別に、何も考えてなんか……」
「嘘つけ。顔に書いてあるようなもんだぞ」
……そんなに分かりやすいのか、俺。嫌気が差すのと同時に、漏れ出す溜息。
アッシュの胸に頭を乗せると、彼にぎゅっとしがみつく。耳を傾ければ、聞こえてくるのは鼓動の音。ドクン、ドクン、と一定のリズムで鳴るそれに、やっと落ち着きを取り戻してきたってのに、今度はどうしてか涙が出てきそうになった。
「甘えるな屑」
「少しぐらい、いいだろ」
また頭をはたかれた。けど、そんなに痛くない。アッシュの手は、そのまま俺の頭に居座る。こいつなりの優しさなんだろうか。
「なあアッシュ。俺――」
「……何だ」
返事が返ってくるまでに、ちょっとした間があった。何となく気になってちらっと視線を向けたけど、アッシュは俺から顔を背けていて、どんな表情をしてるのかいまいち分からない。少し残念だ。
――俺、もうすぐ消えちまうらしいんだ。
このことを知ったら、アッシュは一体どんな顔をするだろう。見てみたい気もしたけど、結局言葉には出来なかった。
でも、それで良かったんだって思う。だって俺のことだ。言ったらきっと、後悔するに決まってる。言ったらもう、取り返しがつかなくなってしまうから。
「レプリカ?」
呼ばれたことは分かっていたけど、俺は何も応えられない。アッシュも、それ以上は呼びかけてこなかった。
きつく目を閉じれば、暗い世界に存在するのはアッシュの鼓動の音と、温もりだけになった。自然と混じり合う体温が心地好くて、何だか懐かしい気持ちになる。
どっちみち消えちまうんなら、それまではこんなふうに優しい世界で過ごしたい。
「……何も考えるな」
しばらくして静寂を破った声は、意外にも穏やかなものだった。俺の頭に置かれていた彼の手が、一度だけ髪を撫でていく。
「お前なんかが何か考えたところで、どうせ浮かぶのは卑屈なことばかりだろう」
だから今はもう何も考えるな。そう告げられた言葉とは裏腹に、声は優しかった。胸の奥が、じんわりとあたたかくなる。
「うん。……ありがとな」
「礼を言われる覚えはねぇぞ。むしろ謝れ。ウジウジしてるお前は、いつも以上にうざいんだよ」
「何だよ、それ」
たまには素直に心配してくれたっていいのに。そう思ったけど、やっぱり口にはしない。
代わりに体を起こすと、アッシュの頬にくちびるを寄せる。今度はやわらかな口づけを落とした。
「さっみぃ〜!」
ちゃんと防寒用のコートを着てるってのに、ケテルブルクの気候は俺にはつらい。芯まで凍っちまうような寒さに、声まで震えてしまっていた。ジェイドもディストも、それからピオニー陛下も、この寒さが原因で顔に笑みが張りついちまったままなんじゃないかって、マジで疑いたくなる。
踏みつけた雪がキュッと音を立てた。気を付けねえと、足を取られて転びそうになってしまう。
「寒いのは当たり前だろうが、この屑。大体、どうして俺まで……」
アッシュがげんなりと息をつく。白い溜息は暗くなり始めた灰色の空に溶けていき、見えなくなった。
「そんなに言うなら来なけりゃ良かったのに」
俺がつい漏らしてしまった言葉に、むっと顔をしかめたアッシュがくるりと背中を向ける。
「なら戻る」
「え、ちょっ! 冗談だっつの!」
マジかよ! 慌てて彼の腕を掴んだ。振り返ったアッシュは、意地悪そうに笑っている。やられた!
「いちいち本気にするな。これだからお前は馬鹿なんだ」
「お前なぁ!」
何だよ、かわいくねーの。
アッシュの腕を解放すると、今度は手を握った。嫌がる素振りなんて、無視だ無視!
手袋越しなのに、繋いだ手があたたかいのが分かる。それが何だか妙に嬉しくて、つい力を込めてしまうと怒られた。
ふと、辺りに人気がないことに気付く、夕飯の支度に追われている時間帯なんだろうか。
これじゃあこの白くて冷たい世界に存在しているのは、俺とアッシュだけみたいじゃないか。そんな筈がないのは分かっていたけど、そう思ってしまう。
「今度は何だ」
引き寄せると、アッシュは不思議そうにまばたきをする。
「へへっ。こうすりゃあ、二人共あったかいだろ?」
手を繋いだまま抱きしめて、アッシュの肩に顔を埋める。こういうの、何かいいな。
「……屑が。誰か来たらすぐ引き剥がしてやるからな」
至近距離で文句を聞きながら、俺はゆっくりと目を閉じる。白くて冷たい雪が消えた世界には、混じり合った温もりだけが残された。
(by sakae)
END
(07-11-26初出)
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