約束の葡萄酒

 テーブルの上にあるワイングラスは、部屋の主に似つかわしくない。そう思ってしまうのはギュスターヴにとって、従兄のデーヴィドが成人したという実感がほとんどないからだ。確かに元からあった二人の身長差は最近ぐんと開いてしまったものの、デーヴィドの背はまだ彼の父や叔父には及んでいないし、他の大人達に混じってしまえばあどけなさが際立って見える。だからギュスターヴは、従兄が自分と同じ子供という括りの存在だと思い込んでしまうのだ。
「人のことをジロジロ見るのは失礼にあたると、いつも言っているだろう」
 向かいの席で眉をひそめたデーヴィドが、件のグラスを手に取った。その中身は真っ赤なブドウ酒。元々一杯だけのつもりなのかワインボトルは見当たらなかったが、聞けば故郷の有名なものだという。ヤーデ伯家に縁があるその銘柄は、ギュスターヴも父達が飲んでいるのを見たことがあった。
「言っておくが、お前はまだ駄目だからな」
「分かってるよ」
 今度はグラスを見つめすぎていたようで、ワインを飲みたがっていると誤解されてしまった。ギュスターヴはすぐさま否定したのだが、向けられたのはどこか探るような目。従兄が成人してからというもの、小言を聞く頻度がいっそう増した気がしてギュスターヴはうんざりする。せっかく、久しぶりにゆっくり話せると思ったのに――。
 成人すると共に政界デビューを果たしたデーヴィドは、近頃何かと忙しそうだった。ついこの前も、重要な会議に出席したばかりだ。そんな多忙な彼が今夜はのんびりするつもりだと言っていたのに、構ってもらおうと部屋を訪ねてきてしまったことが、そもそもの間違いだったのかもしれない。まさかワインを飲んでいる最中だなんて、思いもしなかったのだ。
 ギュスターヴは今すぐにでも部屋を飛び出したい気持ちになっていたが、拗ねて帰ったと思われるのだけは心外だった。せめて、あのグラスの中が空になるまでは。浮きかけた腰を誤魔化すように座り直すと、ワインをじっくり飲んでいる従兄を見つめる。顔がほんのりと赤いものの、酔っているようには見えない。
 ふと目が合った次の瞬間、デーヴィドがグラスを置いたかと思えば突然立ち上がった。そのまま部屋を出ていこうとするものだから、ギュスターヴは慌てて呼び止める。まだグラスの中身だって、少し残っているのに。
「デーヴィド? 一体どこへ……」
「すぐに戻る。見てないからって勝手に飲むんじゃないぞ」
「分かってるってば!」
 ムッとなって返した言葉は、閉じられた扉に弾かれる。何か悔しい。長い溜息をついたギュスターヴは、テーブルに残されたグラスを睨みつけた。
 そうしているうちに、ひょっとすると従兄の貴重な時間を邪魔してしまったのではないかという考えが頭を過ぎった。すぐに戻るとは言っていたが、本当は怒っていて帰ってこないつもりかもしれない。嫌なら、最初から断ってくれたら良かったのに。
 自分の方こそ、今のうちに部屋に帰った方が……。ギュスターヴの心を不安が埋めつくしそうになった時、部屋に飛び込んできたのはノックの音。次いで「入るぞ」と聞こえてきた声は、この部屋の主のものだ。
 緊張した面持ちのギュスターヴが見守る中、部屋に入ってきたデーヴィドはトレイを持っていた。座っているギュスターヴから見えたのはふたつのワイングラスだけだったが、テーブルに置かれたトレイには切り分けられた果物も載っていた。ヤーデでもよく見かけたそれは、干しあんずだ。
「デーヴィド、そんなに飲むつもりなのか?」
 まだ一杯目も飲み終えていないというのにおかわりを、それも二杯分も持ってきたことにギュスターヴはびっくりしてしまった。向かいの席に腰を下ろした従兄は、新しいグラスのうちひとつを持ち上げてから口を開いた。
「ひとつはお前の分だ」
「え?」
 自分の前に置き直されたグラスを、ギュスターヴはぽかんと見下ろした。紫がかった赤い色の液体は、先ほどまで従兄が飲んでいたものとは少し違うように見えるが、ブドウのような色をしている。まさか、これもワイン? ぎょっとしてデーヴィドを見上げれば、彼はふっと目を細めた。
「ジュースだよ。ああまで見られていては自分だけ飲みにくいし、君でも飲めるものを用意してもらった」
「それは……ごめん」
 ギュスターヴの謝罪にデーヴィドはを振る。
「子供が大人に憧れる気持ちは、分からないでもないからね」
「子供扱いしないでくれ」
「まだ子供じゃないか」
「…………」
 覆しようのない事実に口をむギュスターヴだったが、デーヴィドがグラスを手にこちらの様子を伺っているのに気付くと、同じようにグラスを手に取った。そして互いに目の高さまでグラスを持ち上げて、「乾杯」と笑い合う。
 すっかり気分が良くなったギュスターヴは、すぐにジュースを飲み始めた。濃厚で、甘い。ゴクゴクと勢いよく飲んでしまいそうになるのをこらえ、ゆっくり味わうよう心掛ける。おいしいものを口にしている時にまで、小言は聞きたくない。ちらりと見遣れば、デーヴィドは飲みかけの方ではなく新しいグラスに口をつけていた。
「それはそっちのとは違うワインなのか?」
 問いかけにグラスから口を離した従兄は、首を横に振る。
「これは君のと同じジュースだ。うっかり君にワインを飲ませてしまうわけにはいかないだろう?」
 ギュスターヴは飲みかけのまま置かれているワインと、自分のグラスの中身を見比べる。ぱっと見は確かに、どちらがワインなのか分からなくなってしまいそうだ。ワインの方を見ながら、さらなる疑問をぶつける。
「ワインも甘い?」
「少なくとも、これは甘くないな」
 言いながらデーヴィドはグラスを持ち替える。
「じゃあ、どんな味なんだ?」
「そうだな……渋みと酸味が強い」
「……それって、おいしいのか?」
 思わず顔をしかめたギュスターヴに、デーヴィドは微笑む。
所謂〝大人の味〟というやつだな」
 そう言い、彼は目を閉じてワインを飲み干した。さすがは大人だ。ギュスターヴがそう感心出来なかったのは、従兄の行動に違和感を覚えたからだ。
「……デーヴィド」
 添えられていた細身のフォークであんずを取っている従兄を、じろりとめつける。
「僕のこと、ジュースを飲む口実にしただろう」
 口元にあんずを運びかけた格好のまま動きを止めたデーヴィドは、ふふっと小さく吹き出すと悪戯っぽく笑った。
「何だ、もうバレてしまったか。どうやらあのワインは私にもまだ早かったようでね。叔父上が薦めてくださった甘口のものにすれば良かったよ」
「まったく、どっちが子供なんだか」
「すまなかった」
 やれやれと呆れた態度を取りつつも、ギュスターヴの顔は綻んでしまっていた。従兄の子供っぽい一面を見るのは、随分と久しぶりな気がする。現ヤーデ伯である祖父が病床に伏せって以降、ハン・ノヴァ城内の空気はピリピリと張りつめていた。そしてそれは、人々のアニマも同じこと。諸侯との盟約は事実上崩壊し、軍を抜ける者も後を絶たない。
「ヤーデ伯家の代表を務めさせていただく機会も増えてきたことだし、名産品の味くらい知っておかなければと思ったんだがな」
「大人も大変なんだな……」
 眉尻を下げて笑ったデーヴィドは、ようやくあんずを口に入れた。
 この優秀な従兄でさえ苦労するだなんて。四年後の自分を思い浮かべようとしたギュスターヴだったが、頭が痛くなりそうになってやめた。今は考えたくない。フォークで突き刺したあんずを、ぱくりと口に放り込んだ。その甘みに頬が緩むものの、少し物足りなさを感じてしまう。
「これもおいしいけど、やっぱりあんずはそのまま食べた方が好きだな」
「それは意外だ。君のことだから、てっきり甘みの強い干しあんずの方が気に入っているとばかり思っていたよ」
「だから、子供扱いはよしてくれと言ってるじゃないか! ……確かに、甘い物は食べやすいけど」
 くちびるを尖らせるギュスターヴに対し、デーヴィドは楽しげな様子だ。ひとしきり笑った彼は穏やかな表情のまま、まっすぐこちらを見据える。
「それなら、君が成人した暁にはヤーデで酌み交わそう。向こうの方がワインの種類も豊富だし、甘酸っぱいあんずも好きなだけ食べられるぞ」
「うん、約束だ!」
 久しく帰っていない故郷に思いをせたギュスターヴは、まるで幼い子供のように応えてしまったのだった。

* * *

「そんなに見つめられていると、飲みにくい」
 じっと向けられている翠色の双眼に、堪らず顔に近づけていたワイングラスを下ろしたグスタフは眉を寄せた。しかし相手はというと、不思議そうに小首を傾げる。
「その髪型なら注目を集めることだって多いだろうに」
「そういう問題ではないんだがな……」
 そう言い返したところで何の意味もない。目の前の彼が昔以上に口が達者になっていることは、すでに身をもって知っている。
 溜息をひとつして、グスタフは改めてテーブルに置いてあるワインボトルに目を向けた。それに刻まれているのは、故郷の有名ブランドの名。その中の一部が、今まさに自身の手中にある。思わず顔を強ばらせたグスタフはグラスを軽く回すと、鼻に寄せた。そうして先ほどより豊かになった香りを楽しんでから、ワインを口に含む。ほんの少し飲んだだけでも、これまで口にしてきた酒とは別格なのが分かった。
「……味も香りも濃厚で、見事なものだ。ヤーデを代表するブランドというのも頷ける」
「それだけかい?」
 グスタフの率直な感想に、男は満足しなかったようだ。もっと明確に、ということだろうか。だがグラスの中を覗き込んでみても、気の利いた言い回しは浮かんできそうにない。
「すまないが、言葉で伝えるのは苦手なんだ。ちゃんとした批評を求めているのなら、他の者に頼んでくれ」
「……。苦くて飲みにくいとかはないか?」
「ん? それは平気だが」
 いよいよ男がつまらなそうな顔になる。一体、何がいけないんだ。内心お手上げ状態のグスタフが思い浮かべたのは、今も北大陸で冒険しているであろう相棒の顔。この場にお喋りなあの男がいてくれたなら――いや、余計に話が拗れてしまう可能性も大いにあり得る。都合のいい幻想を、グスタフは首を振って打ち消した。
「デーヴィド。言いたいことがあるなら、はっきり――」
「どうぞ」
 話を遮るようにズイッとグスタフの目前に差し出されたのは、やわらかな橙色の果物が並べられた皿。生のあんずを見るのはかなり久しぶりのことで、思わずグスタフは言いかけていた言葉の続きを呑み込んでしまった。その様子を、またもデーヴィドはじいっと見守っている。
 人をジロジロ見るのは失礼だと口を酸っぱくして言っていたのは、どこの誰だったか。グスタフは痛みを感じて頭を押さえる。従兄の目的がさっぱり分からない。それでも食べることを期待されているのだけはひしひしと伝わってくるので、大人しくあんずを口に運んだ。
「やはり甘酸っぱいな」
 口の中に広がるほど良い甘みと酸味に、自然と頬が緩む。が、デーヴィドは相変わらず何か言いたげな様子なのに口を閉ざしている。グスタフは考えて、一言付け加えた。
「……おいしいと思う」
「どんなふうに?」
「いや、だから甘酸っぱいと言って……ああ、それから懐かしい味がするな」
 ヤーデを離れてから干した物はまだしも、生のあんずを食べる機会に恵まれることはなかった。そう伝えると、ようやく従兄の表情が明るくなったものだから、グスタフはますます困惑する。何故そこで嬉しそうにするんだ。そんな思いで見返せば、小さな吐息を漏らしたデーヴィドがやっと自分のグラスを手に取った。
「君からすればとうに飲み飽きてしまったワインのひとつかもしれないが、私は君と酌み交わせる今日という日を、ずっと心待ちにしていたんだ」
 物憂げな表情をしながらも彼は優雅な手つきでくるくるとグラスを回すと、流れるようにそれを顔の方に近づけた。絵に描いたような所作は、さすが伯爵といったところだろうか。グラスを傾ける従兄の姿につい見入ってしまったグスタフは、しかし我に返った途端に大きな声を出していた。
「ヤーデ・ロイヤルの、ましてや最高品質のものなんて、一介の冒険者が気軽に手を出せるわけがないだろう…!」
 冒険者が日常的に求めるのは大抵安酒で、彼らが出入りするような酒場には高価な物はそうそう置いていない。なのでラウプホルツを拠点にしていた頃ならまだしも、北大陸に渡ってからはワインを飲むことすら稀だった。そんなグスタフの訴えに、デーヴィドは目を輝かせる。
「ということは、初めて飲んだんだな?」
「そうだが。……ようするに、君は拗ねていたということでいいのか?」
「そういうことになるな」
 間髪を入れずに返ってきたのは肯定の言葉で、グスタフは驚いた。てっきり否定されるとばかり思っていたのに。絶句する従弟をよそに、手に持ったグラスを見下ろしながらデーヴィドは続ける。
「成人したばかりのお前なら、渋い顔をして飲んでくれただろうに。少しつまらないな」
「……デーヴィド?」
「ちゃんと飲みやすい白ワインもすぐに出せるよう、準備しておいたんだがな……。ああ、せっかくだしそれも飲むか?」
 平然と言い放たれ、グスタフは漏れ出そうになった嘆息をワインと一緒に喉の奥へと流し込んでから、きっぱり断った。果たして、どこまで本気なのだろう。ジト目を向けると、デーヴィドはくつくつと笑った。
「冗談さ。ただ、君と初めて飲んだあの夜の――正確には君が飲んでいたのはジュースだったけれど。とにかくあの喜びを、もう一度味わいたくてね」
「……私をダシにして飲んだブドウジュースのことか?」
「うん? もう十年以上も前のことだから、記憶が曖昧だな」
 そう言って涼しげな表情でワインを楽しんでいる従兄に、グスタフは苦笑する。随分といい性格になったものだ。だけどそれだけ苦労してきたのだろうと思い至った瞬間、口内に苦味を感じた。不意に発しそうになった謝罪の言葉を、どうにか呑み込む。デーヴィドだってそれを望んではいないだろうし、何よりもこの場にそぐわない。
 グラスを空けてしまうと、グスタフはワインボトルに手を伸ばした。
「デーヴィド」
 声を掛ければ意図を察してくれた様子の彼が、同じように空っぽのグラスをこちらに寄せてくる。グスタフがワインを注いでやると、途中で「入れすぎだ」と笑って止められた。普段並々と注がれた酒を飲むことが多いせいか、癖になってしまったようだ。軽く謝ると視線で促され、デーヴィドにワインボトルを手渡して自分のグラスを近づける。
「すっかり遅くなってしまったが、改めて――」
 適量のワインが注がれたグラスを持ち上げながらグスタフが微笑みかければ、デーヴィドもにこやかに笑う。今日に至るまで様々なことがあったものの、遠い昔に交わした約束を果たせることが嬉しくないわけがなかった。
「乾杯」
 喜びの声が、綺麗に重なった。


END
(25-08-02初出)
デーヴィドはグスタフが相手だと遠慮がないと良いな〜と思います。

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