いつかその手の温度を忘れても

 最近なかなか仕事が捗らない。やっとの思いで書類を一枚仕上げたところで、デーヴィドの口から大きな溜息が漏れ出てしまった。そのせいか、部屋にいた文官達が一斉に視線を向けてくる。いけない。デーヴィドは緩くを振って気を引きしめ直すと、再び書類の山と向き合う。視界の隅で文官の一人が何か言いたげにしているのが分かったが、どうしても顔を上げる気になれなかった。執務室の外が騒々しくなったのは、そんな時だ。
「デーヴィドはここだな」
 聞こえてきたのは、さも不機嫌そうな声。何故あの人が今ここに? 内心戸惑いながらもデーヴィドが羽根ペンと書類を机に戻して居住まいを正した直後、勢いよく扉が開かれた。ズカズカと室内に入ってきたのはやはり父チャールズで、部屋のすぐ外では彼の側近が気まずげな様子で待機しているのが見えた。同様に務めに励んでいた文官達の顔もさあっと青ざめていく。本来の予定よりずっと早い帰還のうえ、見るからに機嫌の悪い主君が乗り込んできたとなれば、慄然としてしまうのも無理はない。
「こ、これはチャールズ陛下、何か早急に必要な書類でも――」
「下がれ」
 慌てて席を立った文官の言葉を、チャールズが容赦なく遮る。
「私が用があるのはこれだけだ。全員下がれ」
 そう言って睨みつけられたデーヴィドだけを残し、文官達は速やかに退室していく。重々しい音を立てて扉が閉められると同時にチャールズが歩を進めた。父を迎えるようにデーヴィドも重い腰を持ち上げる。
「ギュスターヴのやつがいなくなったそうだが」
「……はい。しばらく姿を見ておりません」
 デーヴィドの返答に、机を挟んで向き合ったチャールズは思いきり眉根を寄せる。
「従軍を認めてやった途端にこれだ。まったく、怖気づいたのか知らんが無責任なやつめ」
 返すべき言葉が浮かばず、デーヴィドは俯く。無責任。傍から見れば、確かにそうなのかもしれない。けれど。
 頭を過ぎったのは最後に見た、従弟の歪んだ顔。彼が課せられた宿命に苦しんでいた時間は、おそらく短くはなかった筈だ。それをそうと見抜けず追いつめてしまったのは、他ならぬデーヴィド自身だった。彼の行動に非があるとすれば、それはきっと自分の責任だろう。デーヴィドはぐっと拳を握り込む。
「帰還した翌日にはいなくなっていたらしいな。何故私に報告しなかった?」
「それは……ギュスターヴがすぐに戻る可能性もありましたし、戦場にいらっしゃる父上に急いで知らせるほどのことではないと思いましたので」
 勝手に一人でどこかへ行ってしまう従弟の悪いその癖は、ヤーデで暮らしていた頃からあった。こっそり人助けをする為だったり、腕試しを兼ねたモンスター狩りの為だったりと理由は様々だ。とにかく彼が姿を消すたびに怒りながらも心配で捜し回ったデーヴィドだったが、今回は違う。走り去る従弟を呼び止めようとするのが精一杯で、あとを追いかけることが出来なかった。突然のことに頭が回らなかったのだ。従弟の従者達が騒ぎ出して、ようやく捜索の指示を出せたほどの有様だった。
 この一ヶ月近く兵達がハン・ノヴァの街を中心に近辺を捜し続けているが、未だ従弟の足取りは掴めていない。
「ふん、あれを庇っているつもりか? まあいい、やる気のないやつがいたところで何の役にも立たん。勝手にどこへでも行けばいい」
 この分だと従弟の捜索は今日で打ち切られてしまうだろう。デーヴィドの胸中には複雑な感情が渦巻いていた。もう一度話し合いたい一方で、二度と顔を合わせない方がいいのではないかと考えてしまう。直接捜索に加わらなかったのは、ただただ書類に追われていたせいだけではなかった。
「それで、お前の方はどうなんだ」
「え?」
 質問の意図が掴めず顔を上げたデーヴィドは、鋭い視線を受けて体を強ばらせる。チャールズだって亡くなった実弟の一人息子の失踪に思うところがないわけではないのだろうが、もとより特別な情を抱いているようには到底見えなかった。なのに、どうしてわざわざ戦場から帰ってきたのか、そして何故息子に突き刺すような目を向けてくるのか、デーヴィドには見当もつかない。たじろいでいるうちに、再度チャールズが口を開いた。
「お前にはやる気があるのかと、そう聞いている」
「何を仰るのですか、父上。ヤーデ伯家に生まれた者としての責務を全うする覚悟なら、とっくに――」
「だったら!」
 バン、とチャールズが勢いよく机に両手をついた拍子に、何枚もの書類が宙を舞った。彼は押し黙ってしまったデーヴィドのマントの襟を乱暴に掴んで自分の方に引き寄せると、凄んだ顔で言い放つ。
「だったら、その腑抜けた面を今すぐどうにかしろ!」
「……ッ!」
「この程度のことでうろたえてどうする、お前は次期ヤーデ伯だろう! 私の顔に泥を塗るつもりか!?」
「申し訳、ありません……っ」
 咄嗟に返した謝罪の言葉は震えていて、デーヴィドはひどく驚いた。そこでようやく、自身が平常心を失っていたことに気付いたのだ。敬愛していた祖父や叔父が亡くなった時でさえ、ここまで取り乱しはしなかったというのに。思えば先ほどの文官達の視線だって、気遣わしげなものだった。そしてそんな視線を受けたのは、今日に限ってのことではない。ギュスターヴがいなくなったあの日から、ずっとだ。
「お前は余計なことなど考えず、自分が為すべきことだけに集中していろ!」
 襟を掴んでいた手が離れた途端デーヴィドはよろめき、椅子にへたり込む。その様子を冷ややかに見下ろしていたチャールズは大きく舌を打つと、くるりと背を向けた。
「いいか、二度と醜態を晒すなよ」
 それだけ言い残して、彼はさっさと部屋を出ていってしまった。しばらく呆けたままドアを見つめていたデーヴィドは、知らず知らずのうちに詰めていた息をゆっくりと吐き出した。おそらく仕事に身が入らない息子の様子を耳にして、チャールズは帰ってきたのだ。叱責するだけの為に、わざわざ予定を早めてまで。
 身なりを整えるデーヴィドの顔に小さな笑みが浮かんだ。きっとチャールズは、不甲斐ない息子を許せなかっただけに違いない。それでも。
 ふと思い出したのは、ずっと昔。まだ爵位を持っていなかったチャールズは当時から戦場にいることが多かったのだが、珍しく彼がヤーデに戻ってきている時のこと。昼寝をしていた幼いデーヴィドは、よりにもよって父が死ぬ夢を見てしまって飛び起きた。心配する使用人達の間をすり抜け、向かったのは父の部屋。突然自室に飛び込んできた息子にチャールズは怒鳴りこそしなかったものの、何か小言を言っていたような記憶がある。しかしデーヴィドが必死に泣きつくと、彼は面倒くさそうに、それでも一度だけ、その大きな手で小さな頭を包み込むように撫でてくれたのだ。
 ――くだらんことで泣き喚くような息子はいらないぞ。
 あの時掛けてくれた言葉だって、決して優しいものではなかった。それでもデーヴィドは、父に失望されないよう強くなろうと幼心に決意したのだ。そして、今日も。
 デーヴィドは立ち上がると、床に散乱した書類を掻き集める。
 きっともう、ギュスターヴには会えない。そんな予感に疼く胸を無視して、机の上で書類を並べ直していく。このまま悲しみ、ただ落ち込んでいるわけにはいかないのだ。もう従弟と会えないのなら、やるべきことはひとつだけ。
 書類の整理を終え椅子に座り直した直後、控えめなノックの音が鳴った。デーヴィドの返事に扉は開かれ、文官達が入ってくる。
「ああ、良かった……」
 デーヴィドの顔を見るなり、文官の一人がそう漏らした。それはチャールズの怒りを買ったのに無事であることに対してか、それとも。
「余計な心配を掛けてすまなかった。もう大丈夫だ」
 文官達の顔を見回しながらデーヴィドが告げれば、皆安心したような表情になった。彼らの様子からして、もう心配されるような顔つきではないのだろう。再びデーヴィドは書類に目を落とした。
 今も治安悪化の一途を辿るロードレスランドを始めとして、長く戦火に見舞われてきたサンダイル。どこかで手を打たなければ、いつまで経っても争いの日々は終わらない。デーヴィドの脳裏に浮かんだのは、炎をった剣。かつて戦場を駆け抜けた叔父が振るい、そして今は従弟の手中にある、フィニー王家を継ぐ者の証。あの剣を受け継いだ心優しいギュスターヴなら、世を平定出来る王となり得るのではないかと真剣に考えたのだ。けれども、それは叶わなかった。それなら別の方法で、太平の世を築き上げねばならない。
 いつか、この世界のどこかで生きる従弟が幸せに暮らせるようになる為にも。
 目を覚まさせてくれた父に、デーヴィドは深く感謝した。だが実際に礼を言えば、きっと煙たがれてしまうことだろう。そういう人なのだ、あの人は。差し出した手を振り払われる光景がありありと浮かんで、デーヴィドはひっそりと苦笑を漏らす。
 そもそも手を握り返してくれたことなんて、ほとんどなかった。そういったスキンシップよりも、厳しい稽古のさなか倒れたところを無理やり引き起こされた回数の方が遥かに多い。

「チャールズ様がお命を落とされました」

 それなのに、訃報を受けて真っ先にデーヴィドが思い出したのは、父の手だった。一度だけ不器用に撫でてくれた大きな手、強引に体を起こそうとする手、マントの襟を掴む荒々しい手――そうか、もうあの手が私を掴むことはないのか。
 ふっと遠のきそうになる意識を引き戻したのも、また父だった。耳の奥で蘇った厳しい声にデーヴィドは小さく頷く。ええ、分かっていますよ父上――。
 気を取り直すと、デーヴィドは和平会議を中断しようとする面々に待ったを掛けた。大地に還ったであろう父のアニマに、みっともない姿を見せるわけにはいかなかった。


END
(25-07-10初出)
グスタフがいなくなって動揺するデーヴィドと、何だかんだで父親面するチャールズって良いよなあと思って書いた話でした!

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