※無断転載・AI学習を固く禁じます。
日差しを取り戻したその日、二度と同じ過ちを繰り返さないと固く誓った。
いろんな感情が綯い交ぜになってとめどなく溢れ出す涙で濡れた頬に、優しく触れてきた白い手。陽光に輝き眩しくさえ感じる青年のその声も、太陽に負けないくらいあたたかなものだった。
「もうあなたを束縛するものは何もありません。だから、安心してください」
そう言われて、縋りつくように体を寄せていた。まわされた腕は力強く、そして何よりも優しい。この時感じた温もりを生涯忘れることはないだろうと、ダークチョコは思った。
「良かったら、一緒にお出かけしませんか」
家を訪ねてきたばかりのミルクがそんな提案をしてきたのは、ダークチョコがこの王国で暮らし始めて、そろそろひと月が経つという頃のことだった。突然のことに反応を示せずにいると、彼はいつもの優しい笑みを浮かべながら、ついさっき閉めたばかりのドアをそっと振り返る。
「せっかくいい天気なんですから、ずっとお家にいるのは勿体ないですよ!」
思わずダークチョコは目を伏せた。天気がいいのは確かに喜ばしいことだろう。そう思っても頼まれた仕事などがない限り、外に出るのにはためらいがあった。
先の戦いでイチゴジャムマジックソードが砕け散り、呪いから解放されたものの、十数年ぶりに拝んだ太陽の光をこの身に浴びることも、そしてクッキー王国で悠々と暮らすことにも、罪悪感を感じてしまうのだ。それらを甘んじて享受するには、闇の世界に身を置いた時間があまりにも長過ぎたのかもしれない。
だからダークチョコは、必要以上に誰かと接することを避けていた。この王国に過去の所業を責めるものなど誰一人としていなかったが、かえってそれが罪悪感を強めてしまっている。オレのようなものが、のうのうと生きていてもいいのだろうか。そんな想いが、常に胸のうちにある。
だというのに光を集めて作られたような目の前の眩しい青年は、まるで日課のようにダークチョコの家を訪れてきては顔を合わせて笑い、今日はついに明るい世界へと誘ってきてしまった。床に目を落とし黙りこくっていると、低くなった視界に合わせるように腰を屈めたミルクが顔を覗き込んでくる。驚いて後ずさろうとする体を、腕を掴まれ引き止められる。
「ね、行きましょう! 僕が案内しますから」
振り払おうと思えば振り払えた筈の手をそのままに迷った挙句、ダークチョコは結局頷いていた。このままの状況がいいとも思っていなかったからだ。どこに属しても中途半端な自分自身に苦い思いで吐き出した小さな溜息など掻き消してしまうかのように、ミルクが張り切った声を上げる。
「それじゃあ行きましょう!」
薄紅色の飲み物が入った透明なカップを手に、ダークチョコはベンチの背もたれに身を預けていた。ざわざわと頭上の木々が風に揺られて鳴いている。この王国で暮らすようになってからは戦う時以外ほとんど軽装で過ごしているのもあってか、以前より自然を近くに感じる。枝葉の隙間から差し込んでくる日差しは家を出た直後と比べると、大分弱くなっていた。
「あの、すみません」
「……?」
すぐ隣から突如上がった謝罪の言葉に、カップにつけたばかりの口を離して首を傾げる。この爽やかな飲み物を買ってきてくれたミルクには感謝こそすれど、逆に謝られるようなことは思い浮かばなかったのだ。不思議に思ってまだ幼さの残る横顔を眺めていると、薄い色の瞳もこちらを向く。
その瞬間何故かドキリとして、ダークチョコはうっかりカップから手を離してしまいそうになった。それでも表面上は慌てたようには見えなかったらしく、ミルクは謝罪の続きを口にする。
「ダークチョコ様と一緒だからと、つい張り切りすぎてしまいました……疲れちゃいましたよね」
「いや。そんなことはない」
半日ほどあちこち連れられて確かに疲れたのは疲れたが、それはほとんど慣れないことへの緊張のせいだった。決して彼が悪いわけではない。
「今日は……色々と為になった。感謝している」
「本当ですか! 良かった…!」
ぱあっと表情を明るくしたミルクは、やっと飲み物に口をつけた。彼が飲んでいるのも、ゼリーベリーの酸味がアクセントとなっているエイドだ。
「…………」
初めて出会った頃と変わらない屈託のない笑みに、ダークチョコも顔を綻ばせる。彼の笑顔を見ていると何だか安心してしまうのは、子どもの頃の面影が強く残っているからだろうか。
「あ、ダークチョコ様! これ、中のゼリーベリーもおいしいのでちゃんと食べてくださいね!」
「あ、ああ」
再びこちらを向いたミルクに、戸惑いを覚える。彼のその笑みはここで暮らすようになってもう何度も目にしているにもかかわらず、自分に向けられるたび何とも言えない気持ちになってしまうのだ。嬉しい筈なのに、何故か苦しい。
噛みしめたゼリーベリーは、少しだけ酸っぱかった。
翌日は、明るい夜だった。
満月を目にしたのは一体いつ以来なのか、ダークチョコ自身覚えていない。年中雪で覆われた国で生まれ育った身からすれば元々物珍しいそれを、惚けたように見上げていた。
「おや、今夜は満月ですか。綺麗ですね」
近くから聞こえてきた声にハッと我に返って、顔を向ける。驚かせるつもりはなかったんですが、と軽く手を振って謝る仕草をしたのはスパークリングだった。
「こんばんは」
改めて挨拶を口にして、スパークリングが微笑む。ダークチョコは曖昧な言葉を小さく返しながら、僅かに頭を垂れた。
元敵だということを除いても、あまり話しかけやすいタイプとは自分でも思えなかったが、この王国のもの達はよくダークチョコに話しかけてくる。気のいい連中ばかりだ。
「良かったら私の店で飲んでいきませんか? みんなであの月に乾杯しましょう」
誘いを断るつもりでいたのに「みんなで」という言葉を聞いて、つい了承してしまっていた。みんなの中に、あの青年も含まれているのではないかと思ったからだ。彼は朝早くから気球に乗って探索に出掛けてしまったから、今日はまだ顔を合わせていない。とはいえ、昨日長い時間を共にしたばかりである。それなのにもう顔を見たくなってしまったのは、ミルクが毎日のように自分の元を訪ねてくるからだろうか。
そんな些細な疑問は、バーに着くなり吹き飛んでしまった。
店の物が心許なくなったからと、少し店を抜けて買い出しに出たというスパークリングの荷物を運ぶのを手伝ったダークチョコを出迎えたのは、見たかった笑顔そのもので。
「わあ! 今夜はダークチョコ様もいらしたんですね!! 嬉しいです!」
初めてバーに顔を出したダークチョコの存在に、ドアを開ける前から騒々しかった店内がさらに賑やかになる。
「お、来たか! よしっ、今日はあたいの勝ちだな!」
「ちっ!」
「へぇー珍しいお客さんだね〜。ところでスパークリング。ブドウジュースのお代わりが欲しいんだけど」
「はいはい少々お待ちください。偶然出会ったので、せっかくの機会ですからお連れしたんですよ。――あ、荷物はここに」
さっそく空になったグラスを向けてくる常連客に苦笑をこぼしつつも、スパークリングはダークチョコを振り返った。示された場所に荷物を置くと「お礼にとびきりの一杯をご馳走しましょう」と言い残して、彼はカウンターの中に入っていく。ぼんやりと見送っていれば、後ろから「ダークチョコ様」と声を掛けられた。そんな呼び方をするのは一人しかいない。
「ここ、空いてます! 一緒に飲みましょう!」
ミルクが自分のいるテーブルを指しながら、声を弾ませる。一角に一人ずつ座れるようになっている四角いそのテーブルには、確かにまだ二人分の空席があった。素直に足を向けようとすると、彼の正面に腰掛けている紅イモが顔を歪める。
「何だよ、辛気くさいやつと飲むのかよ……って痛っ! おいミルク! お前今足踏んだだろ!!」
「ダークチョコ様のことを悪く言うのはやめてください。さあ、どうぞ!」
「いい、のか……?」
紅イモに胸ぐらを掴まれていることなど気にも留めず、ミルクは器用に空いている椅子を引く。そのやりとりにダークチョコは迷ったものの、スパークリングがグラスを手に近づいてくるので彼らの間の席に腰を落ち着けた。
ちらりと様子を伺ってみると、紅イモにふいっと顔を逸らされる。過去のこともあってあまり好かれていないようだったが、元々怒りっぽい彼がよく不機嫌そうな振る舞いをするのはすでに知っていたので、気にしないことにした。
グラスを手渡してきたスパークリングが、それではと前置きしてから店内に声を響かせる。
「改めて、今宵の満月に乾杯しましょう!」
「乾杯!!」
「というか今日満月だったのかー!」
あちこちから陽気な笑いが起こる。すっかり祝杯ムードの明るい雰囲気の中にいるのは正直落ち着かないが、楽しそうにしているもの達を見るのは悪い気分ではなかった。
グラスを傾けるとベリーの甘味が喉を潤していく。昨日ミルクが買ってきてくれたスイートベリーエイドとは、また違った甘さだ。酒を堪能していると、いつの間にかミルクの視線がこちらを向いている。彼のグラスの中身は白い。ミルキー牛乳で割った飲み物だろうか。ダークチョコが疑問を口にするより先に、照れくさそうにミルクが笑う。
「僕、お酒はあんまりなんですよ」
「そうなのか。だが別に、恥ずべきことではないだろう」
アルコールが苦手というのは、決して珍しいことではない。しかし紅イモは、ふんと鼻を鳴らす。
「ろくに飲めねーくせにオレにくっついてきて、よくここにくるよな!」
「だって、楽しいじゃないですか! スパークリングさんのジュースもおいしいし、ここではみんな笑顔になれるから」
会話が聞こえていたらしいスパークリングが、カウンターで頷くように頭を下げた。確かに今ここにいるもの達のほとんどが、実に楽しそうにしている。何やら賭けに負けたらしいレッドチリだけは悔しげな顔をライ麦に向けているが、きっとそういったものも含めてミルクやスパークリングはこの雰囲気が好きなのだろうと、ダークチョコにも想像が出来た。
「ダークチョコ様も楽しそうで、良かった」
「……そうか」
返答に困り短い返事になってしまったものの、ミルクは特に気にならなかったようだ。もちろんダークチョコも、この場の雰囲気を好ましく思っている。思ってはいるが楽しそうに見えたというのは、おそらく別の理由の方が比重が大きい。
そのことを自覚してしまうと、ミルクを直視出来なくなってしまった。微笑みから顔を背ける代わりにグラスに口をつける。
ただ笑みが向けられるだけで何故こんなにも胸が高鳴るのか、不思議で堪らない。同じように笑いかけてくれるものも、少なくないというのに。ミルクのそれだけが特別だった。いや、その存在自体が、ダークチョコにとっては特別だったのだ。
子どもの頃を知っているとはいえ、たった一度会ったきりなのに。確かに彼との約束は、闇に身を堕としたダークチョコにとっては苦い記憶でもあり、長い間胸を突き刺していた存在ではあった。だが今胸の中を渦巻く感情は、それともまた違っているように思える。
考え込みながらあっという間にグラスの中身を飲み干して手持ち無沙汰になっていると、スパークリングの手伝いをしていたハーブが、空になったものの代わりに新しいグラスを置いてくれた。
「これも、スパークリングさんのおすすめなんですよ」
「ああ、……ありがとう」
「おい、オレは同じやつをもう一杯頼む」
一杯飲み終えたばかりの紅イモが、ちょうどいいと注文を口にする。それに笑顔で応えたハーブがカウンターの方に戻っていく途中、何人かに同じように捕まっていた。それを見て、ミルクが席を立つ。
「スパークリングさん、ハーブくん、僕も手伝いますよ!」
「ありがとう、助かります!」
「それじゃあ少し失礼しますね。……あ、紅イモ! ダークチョコ様に失礼なことを言わないよう気を付けてくださいね!」
「ふん!」
しっかりと釘を刺していくミルクに、紅イモがそっぽを向く。
紅イモの方は不機嫌そうではあるものの、気兼ねなく会話をする二人は本当に仲がいいと、改めてダークチョコは思った。そういえば敵対していた時ではあったが、彼らが背中を預け合って戦っている姿を見た記憶がある。よほど信頼しあっているのだろう。
「……」
途端に口の中が苦く感じて、慌てて新しいグラスに口をつける。つい、羨ましいと思ってしまった。子どものような感情に、嫌気が差す。
結局二杯目もすぐに空にしてしまうと、紅イモがカウンターに向かって、もう一杯追加だと叫ぶように言った。
「何だよ結構飲める口か! 面白い! ダークチョコ、オレと勝負しろ!!」
「いや、私は……」
「お? 何だ何だ、楽しそうだな! あたいも混ぜな!」
「よし次はアタシが勝つ!」
断る間もなく、すでに半分出来上がったように顔を赤くした女二人が近づいてくるなり、空いた席にどかりと腰を下ろす。逃げ道がなくなってしまった。彼女らが大声で酒の名前を呼ぶ傍ら、ダークチョコは諦めて息をつく。
「飲み比べするのは構いませんが、しっかり味わって飲んでくださいよ」
「おう当たり前だろ!」
しばらくして、苦笑を浮かべたスパークリングがグラスといくつかの瓶が載ったトレイを運んでくる。仕方なくダークチョコもグラスを手に取ると、彼は「少しだけ付き合ってあげてください」とにこやかに笑い、瓶の中身をそれぞれのものにそそいでカウンターへ戻っていった。まだまだ忙しそうだ。
「何だよ、あたいらの相手するのは子守りってか!」
そう文句を言いながらも、ライ麦はグラスを片手に豪快に笑う。その笑い声が止んだのが合図となり、飲み比べが始まった。
ダークチョコは同じようなペースでグラスを空けていくうちに、最初から飛ばしていた三人のスピードがちょっとずつ落ちてきているのに気付く。一人だけ飲み進めるのもと思い、少しペースを落とした。時折三人と言葉を交わしていたが、ふとミルクのことが気になった。彼がまだここに戻らないのは、酔っ払い達に席を占拠されてしまったせいだろうか。
視線を店内に移すと、その姿はすぐに見つかった。カウンター席に座った彼は、スパークリングを交えた数名と何やら話し込んでいる。目に入ったのはその後ろ姿と、隣に座るミントチョコの方を向いた際にちらりと見えた横顔だけだったが、それでも楽しそうに笑っているのが分かった。
一瞬あたたかくなった筈の心が、すっと冷えていく。
「…………」
ミルクが自分以外の相手にも笑顔を向けるのは、当然だろう。それに彼の性格なら、きっと誰とでも親密になれるに違いない。そんなふうに考えているにもかかわらず、心に過ぎる大きな影の存在がダークチョコを困惑させる。さっきよりはっきりと成長したその感情は、よく知っていた。
強大な闇の力を持ってしても、打ち倒すことが出来なかったこの王国のもの達にも何度も抱いたそれに、とても似ている。
しかし、これではまるで――。
「今のあんた、まるで恋する乙女みたいだね」
いたずらっぽい声が、胸を抉っていった。固まるダークチョコには気付かずに、レッドチリはべらべらと喋り続ける。
「うっすら顔赤くして、そんなふうに遠くにいるやつ見つめちまってさ――っておい、冗談も通じねえのかよ!」
ぎょっとして顔を向けただけだったが、睨みつけているように見えたらしく、レッドチリは降参するように両手を上げた。
「ハッ、ばーか! 面白くも何ともないからだろうが!」
「おいこらライ麦! お前が今蹴ったのはオレの足だぞ! 間違えんな!」
さらに騒がしくなるテーブルに、自然と店内の注目が集まる。カウンターのもの達も例外ではない。振り向いたミルクと視線がかち合うなり、彼が驚いたような表情になったのが分かった。すぐさまダークチョコは立ち上がる。
「悪いが、今夜はこれで失礼させてもらう」
「は、何だよおい!」
「勝負はまだついてないぞ!?」
「……思っていたより酔いが回ってきたようだ。風に当たりたい」
当然非難の声が上がったが、理由を告げると意外とすんなり文句は止んだ。顔を見れば、渋々といった様子ではあったが。
足りなければ後日請求してくれとスパークリングに向かって声を掛け、何枚かの金貨コインをテーブルに残しておく。即座に伸びてきた女の手をバチンと叩く大きな音を背中で聞きながら、ダークチョコは足早に店を出た。
店内から外に出た途端に吹いてきた風は、思いのほか冷たかったが、おかげで少し落ち着くことが出来た。風が止むと顔に掛かった髪を払い退け、歩き始める。バーの外はすっかり静かになっていた。
「ダークチョコ様!!」
少し進んだところで背中に声が掛かる。出来ることなら顔を合わせたくなかったが無視をするわけにもいかず、ダークチョコは空を仰いで声の主が近づいてくるのを待った。
見上げた夜空は、やはり明るい。未だに見慣れぬそれに、ひとつ溜息を吹きかけた。
「本当に綺麗な月ですね」
すぐ隣にやってきたミルクは空へ向かって腕を伸ばし、広げていた手のひらをゆっくりと閉じていく。当然それは空まで届くことはなく、彼も本気で月を掴み取りたかったわけではないのだろう。手はあっさり下ろされた。
ダークチョコが顔を向けて促すと、自分より少し低い位置にある薄い色の双眼にじっと見つめ返される。それを直視出来ず、目を逸らした。
気まずかったわけではない。むしろその逆で、嬉しいと感じてしまったのだ。今、彼の目に映っているのが、自分ただ一人だけであるという事実が。
そしてそんな考えが、心底気持ち悪いと思った。
「大丈夫ですか?」
「少し、酔っただけだ」
「さっきは距離があったので確信は持てなかったんですが、やっぱり顔色が良くないですね」
「だから、酔っているだけだ。……心配しなくていい」
そう言って歩き出せば同じようについてくるミルクに、視線は前に向けたまま声を掛ける。
「戻らなくていいのか」
「大丈夫です! お家までお送りしますよ」
「……」
必要ない、とはどうしても言えなかった。代わりに歩を速める。
「紅イモもそうですけど、レッドチリさんもライ麦さんも少し荒っぽいところはありますが、すごくいい人達なんです!」
「……そうか」
道中、話し続けるミルクに短いながらも相づちを打つ。話の中身は、さっきバーにいた顔ぶれのものばかりだった。その口からは、決して彼らを悪く言う言葉は出てこない。彼は本当にこの王国が、ここで暮らすもの達すべてが、好きなのだろう。
それにはきっと自分さえ含まれている。そう思うのに、心は何故か乾いていく一方だった。これ以上、一体何を求めるというのか。ダークチョコの顔に自嘲めいた笑みが浮かぶが、幸い空を見上げながら話しているミルクに気付かれることはなかった。
ほどなくして、二人はダークチョコが現在身を置いている家に到着した。家の主がドアの前に立つのを見届けると、ミルクは安心したように笑う。
「それじゃあ、ゆっくり休んでくださいね。良い夢を」
「……ああ」
ぺこりと丁寧に頭を下げてから向けられた背中を、ダークチョコは家に入らず食い入るように見つめる。
ただ、欲しいと願ってしまった。あの薄い色の瞳に、他の誰よりも多く自分を映し出してほしい。けれどそれは、間違った想いだった。恋などという、綺麗な感情ではない。ただの身勝手な欲望でしかなかった。
遠ざかっていく背中に、砕け散った筈のイチゴジャムマジックソードが浮かび上がる。
かつて絶大な力を求め、闇の力が込められたその剣を手に取ったことも。そして取り返しのつかない罪に、さらに過ちを重ねていったことも。それら望んでしまったことのすべてが、間違っていたのだから。
白い背中に向かって、ダークチョコは手を伸ばした。剣の宝石が赤く、誘うように光っている。だが太陽や月と同じように、この手は決してあの背中には届かない。――届いてはならなかった。
「もう二度と、同じ過ちは繰り返さない……」
小さく震えた声で、誓いを口にする。黒い空が割れたあの日、やっと取り戻した空の光を、包み込んでくれたあの光を、決して失ってはならないのだ。
だから、もう間違えない。
ふいに白い背中が振り返った。ダークチョコの伸びた手を不思議に思ったのか、ミルクは立ち止まってこちらの様子を伺う素振りを見せる。ややして、彼は大きく右手を振りながら声を張った。
「また明日!」
胸から溢れ出しそうな想いをどうにか呑み込むと、ダークチョコは伸ばしていた肘から先を立てて、黙ったまま小さく手を振り返した。照らす月明かりはやわらかいのに、二人の間を吹き抜ける風は冷たい。
余計なことは何も言わなくていい。間違った感情は、捨て去るべきだった。宙に浮かんだ剣が粉々に砕け、消えていく。――やはりこれで良かったのだ。
白い背中が見えなくなって、ようやくダークチョコは腕を下ろす。そうして空っぽの手を、ぎゅっと握りしめた。
(by sakae)
END
(21-04-30初出)
※コメントは最大3000文字、5回まで送信できます