隣に立つ時は青空の下で

※無断転載・AI学習を固く禁じます。
「私と共に来ないか?」
 その言葉と共に差し出された手を、ミルクは呆然と見下ろした。理解が追いつかないまま差し伸べられている左手の先から辿るように肩へ、それからさらに上にゆっくり視線を上げていくと、うっすらと笑う男の顔が目に入ってくる。それはずっと前――まだミルクが子どもだった頃に一度だけ目にした、勇ましく優しいあの笑みに似ていた。
「お前は私との約束を果たす為、強くなったのだろう? なら、その力を私に貸してくれないか」
「…………」
 遠くでは、今も甲高い金属音が鳴り響いている。強大な魔法も使われたようで、すぐ近くまでやってきた衝撃波に、思わずミルクは目を瞑り歯を食いしばった。戦いはまだ終わっていない。
 そう、ミルクもまた戦場のさなかにいた。素知らぬ顔で衝撃波をやり過ごしている目の前の男と、戦っていたのだ。ほとんど全身黒ずくめのその男は、上空に立ち込める暗雲と同化してしまいそうに見える。
「……それは、ダークチョコ様の心からのお言葉でしょうか」
 やっとの思いで絞り出した言葉に、もちろんだと黒い男は伸ばしていた手を主張するように、少し持ち上げてみせる。
「お前は本当に強くなった……だから、私と共に来てほしい」
 いつか故郷を救ってくださったあの方のように、強くなりたい。
 ダークチョコをひと目見たあの日に抱いたその夢は、今もミルクの胸にある。その想いを持っていたからこそ、つらいことがあった時も前向きに頑張ることが出来たし、自分の信じた道をまっすぐ突き進んでこられたのだ。今の自分があるのも、彼のおかげだと思っている。あの日の出会いは、それほどまでにミルクに影響を及ぼしていた。
 そんな憧れの男と肩を並べることが出来るなんて、この上ない幸せに違いない筈だった。
 だがダークチョコは、あの暗黒魔女に仕える身となってしまっている。そしてつい先ほども、彼はもう何度目になるかも分からない説得に耳を傾けようともせず、剣を向けてきたのだ。それが何故、急に力を貸してほしいなどと言ってきたのだろうか。
 ミルクは目の前の男をまじまじと見つめる。剣を向けてきた時とは打って変わって、その表情は穏やかだ。手を差し出してくる直前、ちょうど傷のある左目の辺りを押さえ苦しげな声を出していたとは思えないくらいに。やわらかな微笑を口元に浮かべ、こちらを見返すその姿に、まるで昔の彼に戻ったかのような錯覚すら覚える。右手に握られた、禍々しい気配を放つその剣さえなければ。
 ちらりと盗み見るように視線を剣に遣ってから、男に問いかける。
「……あなたは誰ですか?」
 緊張からか、僅かに声は震えていた。男は困ったように小首を傾げる。
「何を…? 私は私、……お前も知ってのとおり、ダークチョコだとしか言いようがないのだが」
「ダークチョコ様を侮辱するつもりなら、容赦はしません!」
「…………」
 今度こそはっきり言い放って、ステッキの先を男に向ける。不思議そうにぱちぱちと片目を瞬かせた男は深い溜息をつくと、おもむろに左手を引っ込めた。芝居がかった仕草に、ミルクの表情はいつになく険しいものになる。
「もう一度だけ聞く。お前は何者だ」
 男はさっきまで差し出していた手で顔の上半分を覆うと、肩を震わせた。その口から漏れ出た音は最初小さかったものの、やがてミルクの耳にまでしっかり届く大きさになる。

「ククク……ハハハハハ!!」

 ついに大声を上げて笑い始めた男に、盾とステッキを構える手に力を込めながらもミルクは一歩後ずさってしまっていた。剣から溢れ出る邪悪な気配が、いっそう大きく膨れ上がったような気がする。
「随分とおかしなことを言うんだな? ……もう一度答えてやるが、私は私だ」
 顔を覆っていた手で白が混じった黒い前髪を鬱陶しそうに掻き上げながら、男はどこか楽しげな声で言った。再びあらわとなった男の顔を見たミルクは、息を詰める。元より赤い色の右目の奥で、赤黒い光がくようにして揺らめいていた。
 目の前のこの男は一体何者だ。ミルクの中で疑惑が確信へと変わる。
「……ッ、ダークチョコ様はどこですか!!」
 知らないうちに震え出した体を必死に抑えるように、ミルクは声を大きく張り上げた。その様子を満足そうに眺めていた男は、手にした剣についた赤い宝石を愛おしげに撫でながら呟く。
「もう少し。……あともう少しで、完全なものとなるのだ」
「……それは、どういう意味です」
「これもお前のおかげだ。お前には、感謝しなければならないな」
 質問の答えが返ってこないどころか意味不明なその言葉に、ミルクはますます眉をひそめる。見返してくる男の笑みは、すっかり邪悪なものに変わっていた。男は左手を胸に持っていくと、そこをとんとんと指で弾くように叩く。
「やつの心はすでにボロボロだったが、それでもかなりしぶとかった。――だが、お前の存在がやつを弱らせている」
 男の言う〝やつ〟の正体に気付くのが遅れて、ミルクは目を丸くしたまま男の一挙一動を見つめていた。
「おかげで、ようやくすべてが手に入りそうだ」
 共鳴するように宝石が輝くのを見て、ミルクは理解した。いや、正確に理解したわけではなかったが、それでもひとつだけはっきりと分かる。やはり今目の前にいるこの男は、ダークチョコに害を成す存在だと。
 気付いた時にはステッキを強く握りしめ、男に飛びかかっていた。頭にカッと血が上ってしまったのだ。もしこの場に他の仲間がいたなら、ひどく驚いただろう。常に他のものを守ることを優先して立ち回るミルクにしてみれば、それは本当に珍しいことだった。
 しかし当然、怒りに任せた攻撃が通じる筈もなく、男は手に持った剣すら使わず最低限体を動かしただけでステッキをかわすと、愉快そうにくちびるを吊り上げる。
「どうした? フフ、私の為に一緒に戦ってくれるんじゃないのか?」
「誰がお前なんかと…ッ!!」
 もう一度大きく振り上げたステッキは、案の定かすりもしなかった。そのうえ足を引っ掛けられてバランスを崩し、ミルクは勢いづいたままうつ伏せに倒れ込んでしまう。手から離れていったステッキが前方に転がり落ちた。
「残念だが仕方がないな。だけどまあ――」
「っ!!」
 痛みをこらえて上体を起こしたミルクの右首に、背後から剣が突きつけられる。そのまま男が少しでも力を加えれば、首など簡単に斬り落とされてしまいそうだった。
「この手でお前を殺すのが一番手っ取り早そうだ」
「……たとえ僕が死んだって、ダークチョコ様は屈しませんよ」
「それは斬ってみれば分か……ッ!」
 宛てがわれた剣とは逆の方向に素早く動かした体を右方向へ捻ると、振り向きざまに盾を勢いよく剣にぶつけた。すっかり油断していたのか、男の手から剣がこぼれ落ちる。
「貴様!!」
 このまま攻めるかステッキを取りに行くか。次の行動に移ろうとしたミルクは嫌な予感がして、咄嗟に地面を蹴った。すると次の瞬間、つい今しがたまでいた場所に赤黒い稲妻が落ちる。直撃こそしなかったものの地面を割ったその衝撃に、ミルクは再び地面に転がった。盾だけは手放すまいと、手に力を込める。
「ううっ」
「大人しくしていれば楽に殺してやったのに」
 上がる黒煙の向こうからこちらを見下ろす男の顔に、もう笑みはなかった。離れているのにぞくぞくと寒気を感じる。どうにかミルクが立ち上がった時には、すでに男の手は地面に投げ出された剣へと向かっていた。息を凝らし、盾を握りしめて男の行動を見続ける。
 ――どうか、どうか目覚めてくれますように。
「!!」
 剣に触れると同時に、男の体がビクッと大きく跳ねる。
「ちっ、光の力がわりついていたか。だがこの程度――ッ!?」
 一度手を引っ込めたものの、男は剣を取った。そうするや否や男は剣を地に突き立て、もう片方の手で頭を抱えて苦しみ始めた。その様子に、ミルクは急いでステッキを拾いに走る。そしてステッキを手に男に近づくと、それを持つ手を高くかざした。
「どうかこの僕に力を!!」
「……クッ、まだ、抗う…つもりなの、か……!!」
 ステッキから溢れ出した光に男はついに片膝をつくと、言葉をなくしたように呻き出す。さっき剣にぶつけた盾にも込めた、聖なる力だった。あの邪悪な存在がこの程度の力で浄化されるとは、ミルクも思ってはいない。それでもきっと、手助けにはなるだろうと考えたのだ。
 剣に意識を奪われてしまった彼が、目覚める為の。
「うっ、……私、は……」
 やがてまだ体を震わせながらも、男が顔を上げる。手の隙間から覗くその表情に、ようやくミルクはステッキを持つ手を下ろした。
「ダークチョコ様!」
「お前――」
 苦しげな様子に思わず一歩踏み出すと、ダークチョコの視線はミルクに向けられる。不気味に蠢く光はなかったが、こちらを見上げてくるその目には怒りの感情が宿っていた。
「一体どういうつもりだッ! 助けてくれたと、このオレが感謝でもすると思ったのか!」
「……!」
 ミルクが答えられなかったのも立ち止まってしまったのも、気迫に圧倒されたからではなかった。自分に向けられたそれがひどく悲痛に感じて、彼に近寄るのをためらってしまったのだ。だからその場でやんわりを振る。
「感謝されるだなんて思っていません。ただ、僕は……どうしても、あなたと戦わなければならないのなら」
 そこで一旦区切ってダークチョコと、その手にある剣を見比べるように視線を動かして続ける。
「他者の介入なく、僕の信念を持ってあなた自身の信念と立ち向かいたかっただけなんです」
 すると一変して、ダークチョコはまるで眩しいものを見るかのようにミルクを見上げた。
「……信念か。それを、そんなふうに口に出来るお前が羨ましいな」
 呟くような小さなその声は、悲哀を孕んでいた。
「そして……、妬ましい」
「…………」
 立ちすくむミルクの頭の中では「お前の存在がやつを弱らせている」と、ダークチョコの姿をした異形の存在が放った言葉が渦巻くように響いている。
 二人の間に訪れた重い沈黙。
 それを破ったのは、少し離れた場所から上がった破壊音だった。
「あれぇ~? ダークチョコ、ここにいたんだぁ~。もう退却するんだって、ザクロが言ってたよぉ!」
「!」
 音のした後方へ目を遣れば、ダークチョコと同じく暗黒魔女に従うものの姿があった。間延びした声の持ち主はまだ幼く見えるが、それでもミルクは身構える。油断してはならない。そこへ今度は怒声が飛んでくる。
「退却だと言われたところで見逃がしてやるかよ、この腹が立つきのこめ! ……って、ミルクお前こんなところにいたのか!」
「紅イモ!!」
「バカ! 敵から目を離すな!!」
 最も頼れる仲間の登場にうっかり気を緩めたミルクは、すぐ近くにダークチョコが立っていることに気付くのが遅れてしまう。しまったと焦るが、彼は紅イモ達には届かなさそうな声で言葉を投げかけてくるだけだった。
「今、私が共に来てほしいと言ったら……お前はこちら側に来てくれるのか?」
「!?」
 ダークチョコの視線は彼の仲間と、それに迫る紅イモの方を向いていた。同じくそちらに顔を向けながら、ミルクは答える。
「……いえ、それは出来ません」
「だろうな」
 黒いマントをはためかせて、ダークチョコがくるりと背を向けた。どうやら撤退するつもりらしい。待ってよぉ~、と緊張感のない声が遠ざかるその背中を追いかけていく。ミルクはあとを追わず、その場でダークチョコを見送る形となった。
「でも諦めるつもりもありません! こちらでご一緒出来る日が来るのを、僕は信じています…!」
 切なる願いの言葉にも、黒い背中が止まることはなかった。その代わりか、ちょうど目の前を走って通りすぎようとした少年が不思議そうにミルクを見上げ、それから自身を追ってくる紅イモの姿を見てにんまりと楽しげに笑うと、また走り始めた。
 少ししてミルクの元にやってきた紅イモが、どんと地面にこん棒を叩きつける。
「おい! お前は何のんびり敵を見送ってんだよ!!」
「深追いは危険ですって! 僕らもみんなと合流しましょう」
「あークッソー! ムカつくぜ!」
 紅イモはもう一度地面に怒りをぶつけたものの、ダークチョコ達を追いかけようとはしなかった。肩へ担ぐようにこん棒を持ち直すと、不機嫌そのままに遠ざかっていくふたつの影を睨みつける。
「で? お前はあいつと何か話してたのか」
「まあ、いつものとおり……今回も駄目でしたけど」
 溢れ出した溜息を、ミルクは暗い色の空に溶かした。今にも雨が降り出しそうな空気に、隣から舌打ちする音が聞こえてくる。
「鬱陶しい天気だぜ」
「……そうですね」
 ミルクには今の空模様が自分の、あるいはあの黒く分厚い雲を引き連れてきた張本人の心そのものであるように思えた。
 見上げた空からぽつり、と落ちてきたしずく。それがステッキを持つ手にぶつかると続いて顔に、そしてもう片方の手にも落ちてくる。噂をすれば降り始めてしまったようだ。ぱらぱらと雨粒が降りそそぐ。

 自分の存在が、ダークチョコを弱らせている。そのことが、今もミルクの心に重くのし掛かっていた。敵の言うことではあったが、おそらく事実なのだろう。だがそれは、同時に彼に迷いがあるということでもある筈だ。そうでなければ昔のことも、自分のことも、もう何の関係もないと跳ね除ければいいだけの話なのだから。
 だからこそちゃんと向き合える日が、きっとやってくる――そう信じたかった。
 黒い影はもうほとんど見えなくなっていたが、ミルクは強く望んだ。早くこの雨が上がって、彼と共に見る空が青く澄みきったものになりますように、と。
(by sakae)


END
(21-04-17初出)

送信中です

×

※コメントは最大3000文字、5回まで送信できます

送信中です送信しました!