※無断転載・AI学習を固く禁じます。
さっきまで晴れてたのに、と仲間の一人がげんなりとした声を出したのは、山に足を踏み入れてすぐのことだった。嘆きたくなるのも無理はない。山の天気は変わりやすいとはいうが、ほんの少し前まで本当によく晴れていたのだ。なのに今は、暗い色の雲が空いっぱいに広がっている。今日中にここを越えなければならないのもあって、尚更気が重くなった。
もしかすると。暗雲に悪い予感がしたのはミルク一人だけではなかったようだ。一同は空を見上げたあと各々武器を持つ手に力を込め、改めて気を引き締め直した。脳裏に過ぎったのは、暗闇から這い出たかのような出で立ちの黒い男――。
慎重に山道を進んでいく中、ついに雨が降り出した。ひっきりなしに地面を叩く大きな雨粒は、すでに何度も戦闘を繰り返している一行の視界と注意力を削ぐには充分だった。轟く雷鳴はすぐ近くから。まずいと思った時には、木々と共に地面が大きく裂けていた。目にしたのは、もはや見慣れてしまった赤黒い稲妻。
「うわああ!」
仲間の悲鳴に慌てて振り返って手を伸ばすが、遅かった。ミルクもまた砕けた地面と共に、地の底へと呑み込まれてしまう。咄嗟に歯を食いしばって体を丸め、落下の衝撃を和らげる。
痛む体に鞭を打って起き上がると、どうにか手放さなかった武具を抱えながら急いで周辺を見渡した。辺りに散らばるのは、木々の成れの果てや割れた岩の残骸ばかり。
「誰かいませんか!」
大声で呼びかけてみるも、反応は返ってこなかった。そのうえこの雨のせいで、遠くがほとんど見えない。ミルク自身を含め何人かが宙に投げ出された筈だが、近くには誰もいないようだった。もう一度辺りを見渡してから、自分が落ちてきた場所に目を向ける。すっかり絶壁となってしまったそこからは、とても元の場所まで戻れそうになかった。おそらくあの場に残った仲間達も、別のルートから自分達を探し始めてくれているだろう。
いや、ひょっとしたら戦闘中かもしれない。闇の稲妻が彼らを貫くのを想像してしまい、ぶんぶんと首を左右に振ってそれを打ち消した。悪いことばかり考えるのも良くない。
怪我をしていたが治療もそこそこに、ミルクは先を急ぐことにした。もし自分以上に傷ついた仲間がいるなら、そちらの回復を優先したかったからだ。
だが視界に映り込んできた鮮明な黒に、その判断を大きく後悔することとなる。たとえ万全の状態であっても、一人で太刀打ちするのは厳しいだろう。足を止めたミルクの視線の先にいたのは、大きな黒い影――ミルクにとっては掛け替えのない存在だった男。そして現在は暗黒魔女の手先であり、敵である男――ダークチョコであった。やはり近くにいたのだ。
もしかしたら死ぬかもしれない。盾を構える手が、僅かに震える。しかしダークチョコはというと、襲いかかってこなかった。そればかりか近くにいるミルクにも気付いていないかのように、大量の雨をもたらす黒い空を見上げている。その姿が何故かひどく寂しげに見え、警戒心が薄れてしまったのがいけなかった。
突如、ミルクの視界がぐにゃりと揺らぐ。思っていたより血を流し過ぎてしまったのかもしれない。頭は冷静に動いたが、体の方はそうはいかなかった。うまく力が入らず、ミルクの体は濡れた地面に投げ出されてしまう。必死に体を起こそうとするミルクに掛かる、黒い影。自分を見下ろしているのはダークチョコだ。遠のく意識の中、今度こそ死を覚悟しなければならなかった。
だからもう一度目が覚めるだなんて、思いもよらなかったのだ。
生きている? ミルクはぱちぱちと目を瞬く。とはいえ、目の前に広がるのは暗黒のみ。雨音は聞こえてくるのに、雨粒が落ちてくる気配はない。
状況を確かめようと動かした指先が、硬い何かに触れる。掴んでみた感触からすると、大きめの石だろうか。闇に慣れてきた目に僅かに映った景色や感覚などから、ここは洞窟の中のようだと検討をつける。それから自分が仰向けになっているのに気付き身を起こそうとするが、体に痛みが走り、思わずそのままの格好で動きを止めた。
一体どのくらいの時間、意識を失っていたのだろうか。雨に濡れた衣服が体に張りつく感触が気持ち悪かったが、少し乾き始めているようだった。
「目が覚めたようだな」
「!!」
ミルクは今度こそ勢いよく体を起こし、声がした方を振り返った。すると、そこだけがほんのりと明るい。そしてその僅かな光には似つかわしくない風貌の男と、視線がかち合う。
「ダークチョコ、様――」
大きな剣を抱えるように座り込んでいる男が、傍らに置いたランタンを持ち上げて無言でミルクを照らし出す。そうすればすぐ近くに愛用のステッキと盾が横たわっているのが見え、ますますミルクは混乱した。意識を失う直前の状況からして、ここに自分を連れてきたのは彼だろう。あのまま殺されなかったことにも驚いたが、さらにはまるで拾えと言わんばかりに照らされた武具。
一体どういうつもりだろうかと疑問を抱きながらも盾とステッキを拾い上げると、立ったままダークチョコを見遣った。彼は再び地面に置いたランタンを、つまらなそうに眺めている。
ふと感じた違和感に、ミルクは自分の体を見下ろした。上から落ちた際に出来た傷に巻きつけた包帯は、急いでいたせいでおざなりな巻き方だった筈なのだ。なのにその時よりしっかり巻かれているのが、はっきりと見えないこの状況であっても分かる。
「……あなたが、手当てしてくださったんですよね」
震える声で尋ねるも、返事はない。視線すら上げない男に焦れ、その顔を覗き込むように彼の前に屈み込む。
「ダークチョコ様! やっぱりあなたは――」
「気まぐれだ」
期待に弾んだ声が容赦なく叩き落とされる。
「今日ここで会ったのは偶然で、あの方の命令ではない。……今はただ気が乗らないだけだが、必要なら」
ダークチョコが抱えている剣を見せつけるようにして持ち上げる。必要なら斬る、ということだろう。彼が手にしているその大きな剣からはいつも邪悪な気配を感じて、ミルクはその剣が好きではない。淡い期待すら裏切られた気分になり、ついムッとして言い返していた。
「でも、さっきは僕らを狙ってきたじゃないですか! その剣の力で」
「さっき…?」
彼が闇のいかずちを操るのは、もう嫌というほど知っている。先に攻撃を仕掛けておいて気が乗らないとは一体何事かと、ミルクは口を尖らせた。だがダークチョコはというと心底驚いたような反応を見せたあと、剣を持つ自身の手に視線を落とし、ああと静かに呟く。
「そうか……私はまた」
闇に掻き消されてしまいそうな言葉が意味することを、ミルクは理解出来ない。けれど剣を見遣るその眼差しが、悲しそうに見えてならなかった。
それきりダークチョコは黙ってしまったので、ミルクも長い息を吐き出すと、少し距離を置いて座り直した。雨音はまだ大きく、もうしばらくは止みそうにない。仲間の安否は気になるものの、今すぐここを出ていく気にならないのは強い雨のせいだけではないのを、ミルクは自覚している。
――まるで檻に閉じ込められているみたいだ。目を伏せるダークチョコを見ながら、そう思った。
彼と対峙する時、いつも空には分厚い黒雲が懸かり、辺りには赤黒い稲妻が降りそそぐ。敵対するミルク達にとってそれは確かに脅威であったが、どちらかといえばダークチョコ自身を逃がさないという意志を持っているように思えたのだ。彼は、何かに囚われてしまっているのではないだろうか。彼が昔のように迷いのない目をしていたなら、そんなふうには思わなかったかもしれない。信念が大きく変わってしまったのだと、ミルクだって諦めることが出来ただろう。
しかし剣と共に向けてくる赤い瞳には、いつだって迷いのようなものが揺らいでいた。そんな顔をするくらいなら、早く剣を収めてほしい、そして、出来ることなら自分達と共に歩んでほしい。何度そう懇願しても、彼は自分達の前に立ち塞がった。
改めてダークチョコに顔を向けて、ミルクは口を開く。
「どうして僕を助けてくれたんですか」
「……気まぐれだと言った筈だが。そうだな。気を失ったものをいたぶるような趣味は持っていない。……それだけだ」
少しの沈黙のあと返ってきた言葉に、それじゃあとミルクは続けて尋ねる。
「あの日――ずっと前に僕を……いえ、僕らの村を救ってくださったのはどうしてですか」
ミルクを見遣ったダークチョコは一旦口を開いたものの、結局何も言わずに口を閉ざし、目も逸らしてしまった。ランタンの中の火が揺らめく。彼もまた、揺らぐ感情に戸惑っているようだった。
「僕は、あなたと戦いたくありません」
「……」
「あなただって、本当は僕達と戦いたくないんじゃないですか」
黒い肩が僅かに揺れる。それを見たミルクは、故郷を脅威から救い出してくれた時の純粋な心を彼が忘れ去ってしまったわけではないのだと確信した。
「ダークチョコ様、今からでも遅くありません。どうか僕達と一緒に来てください!」
「黙れ!!」
カッと開かれた赤い目が、ミルクを射抜く。向けられた殺気に一瞬口を噤むが、負けじとまっすぐ見据えた。
「あなたが心の底から暗黒魔女に仕えているようには思えません!」
「――ッ! 貴様、何も知らないくせに勝手なことを!」
勢いよく立ち上がったダークチョコに見下ろされれば、威圧感が増した。だけどミルクの方も引く気なんてない。腰を上げて、彼を見つめ返す。
「ええ知りませんよ! ……だから答えてください。教えてください!」
敵意を剥き出しにする黒い闇に、ミルクは近づいていく。
強く優しかった筈の男が、何故そちら側にいるのか。どうして闇の力を求めてしまったのか。ミルクには何ひとつ理解出来なかったが、きっと何か理由がある筈なのだ。怒りの表情とは裏腹に悲しそうな赤い目。思わず触れたくなった想いが、ミルクの背中を押している。
「それ以上近寄るな、斬るぞ」
「……あなたが本当にそれを望むなら、今ここで僕を斬り殺してくれても構いませんよ」
「!?」
ステッキと盾を地面に寝かせて顔を上げると、剣に手を掛けていたダークチョコは動揺したようだった。斬りかかってくる気配はない。ミルクはゆっくりと一歩踏み出す。
「ぐっ、うう…!」
「ダークチョコ様!」
手を伸ばせば触れられる距離になって、急にダークチョコが膝をついた。苦しそうに顔の左側を押さえている。新しいものには見えなかったが、左目の傷が痛むのだろうか。
ミルクは急いで手放したばかりのステッキを拾い上げると、ダークチョコの方を向いて高くかざした。癒しの光が辺りを優しく照らし出す。
「……くっ、お前は! まだ説得をやめないつもりなのか。何度も何度も! ……そんなことをしたところで、私の進むべき道は、変わらない!」
苦しそうに肩で息をしながらも、ダークチョコはミルクを睨みつけてくる。こちらが頷くのを見た彼は、さらに口元を歪めた。
「甘いな。そんなことでは何も守れはしないぞ」
ミルクに向けられた筈のそれが、まるで自嘲しているようにしか見えなかった。癒しの力を使い続けながら、大きく頭を振ってミルクは否定する。
「話し合いだけで解決出来ないことがあるのは、分かってますよ。現にあなたとは、もう何度も戦っていますしね」
「……」
じっと見上げてくるその目を、ずっと前にも近くで見たことがあった。あの時見上げていたのはミルクの方だ。
昔、目の前に颯爽と現れた彼は、白いマントと長い髪をひるがえしながら、剣ひとつで村の危機を救ってみせた。そうして一人の子どもの戯言のような夢にも、しっかり耳を傾けてくれて。ミルクの目に、懐かしい光景が鮮やかによみがえる。
「あの日、僕らを救ってくださったあなたは、本当に強かった! だから僕だって強くなろうと力をつけたんです。信念さえあれば――」
「……ちか、ら――ああそうだ力だ! オレには強い力が必要だった!!」
「ッ!!」
バッと体を起こしたダークチョコが、ステッキを跳ね除けた。衝撃にミルクは尻をつく。不安定な灯りを揺らしながら転がったランタンが、足にぶつかり止まった。その灯りとは別の光が頭上に向けられるのを見て、ミルクは息を呑む。ダークチョコが持つ剣の宝石が、赤く不気味な光を放っている。そして自分を見下ろすその目が、同じように発光しているように見えたのだ。
「ダークチョコ様――!!」
思わず叫んだ声にも構わず、男は無情にも剣を振りかぶる。ミルクは目を逸らすことなく、振り下ろされた剣を見ていた。
灯りが消え、ほとんど完全な暗闇と化してしまった洞窟内に響く、荒い呼吸の音。それは二人分だった。
斬られなかった。冷や汗が背中を伝うのを感じながら、ミルクは呼吸が整うのを待つ。
剣を突き立てられ、音を立てて壊れたのはランタンだった。入口があると思われる方向からほんの僅かに明かりが漏れているが、生憎の天気だ。洞窟内を照らすには弱々しく、頼りない。ダークチョコの剣も、今はもう鈍い光を放ってはいないようだった。
広がる闇の中、ミルクは手探りで見つけ出したステッキを使って辺りを照らそうとしたが、少し迷ってから結局やめた。もうひとつの苦しげな息は、まだ治まっていない。
ほぼ見えないとはいえ慣れた動作でステッキをいつもの場所にしまい込むと、ミルクは闇に溶け込んでしまった男の位置を、気配や微かな明かりを頼りに探し出す。
「暗くて何も見えませんね」
「……!!」
言いながらそっと手をまわすとダークチョコが体を強ばらせたのが分かったが、振りほどかれはしなかった。多分、斬られもしない。そんな確信があって、ぎゅっと力を込めて抱きしめ直した。彼の濡れた髪が顔に張りつくのも気に留めず、ミルクは喋り続ける。
「僕も、もっと強くなります。……あなたに懸かる闇を、払い退けることが出来るくらいに」
ミルクの肩口に掛かっていた息が、次第に落ち着きを取り戻していく。ダークチョコの口からは拒絶の言葉は出てこなかった。けれど、その手がミルクの体を抱きしめ返すこともない。
それから一体どのくらい経っただろうか。多分それほど長くはなかったし、本当に僅かな時間だったのかもしれない。それでもすぐ側で感じた息遣いや体温に名残惜しさを感じながら、ミルクはゆっくりと体を離した。
「……もう行きますね。助けてくださって、ありがとうございました」
雨の音は聞こえるものの大分弱くなっていた。動くなら今のうちだろう。
ダークチョコから少し離れてステッキを取り出すと、淡い光で洞窟内を照らし出した。見つけた盾を拾い上げ、入口の方へ向かって歩く。一度だけ振り返り、闇に一人取り残されている男の姿を目に焼きつけた。悔しい想いで胸がいっぱいになる。本当は、今すぐにでもそこから彼を連れ出したかった。もどかしさに震えそうになるのをこらえながら、ミルクは明るい声を出す。
「いつか、あなたと一緒に太陽を見たいです!」
「それは……」
続く言葉を耳に入れようともせず、ミルクは再び歩き始めた。
入口は遠くなかった。やはり雨はまだ止んではいない。洞窟の中から空を覆い隠している暗雲を直視する。
――いつか、この暗黒の空を断ち切れるくらいに、強くなってみせる。
降りそそぐ雨の中、しっかりと突き進んでいくミルクの足取りに、迷いはなかった。
(by sakae)
END
(21-03-06初出)
※コメントは最大3000文字、5回まで送信できます