木の擦れる音と共に酒場に入ってきたのは、新鮮な空気だけではなかった。扉が開かれる前から聞こえていた大きな声が、ぐっと近くなる。それでもジニーは顔を上げず、字を書く手を止めなかった。
「今度は一体何をやらかしたんだ」
丸いテーブルを挟んで向かいに座るグスタフが、溜息をこぼす。それに応えたのは、やってきたばかりの大きな声。
「俺がいつもやらかしてるみたいに言うなよな! それより、プルミエールがヒドイんだって」
「あなたこそ、人聞きの悪いことを言わないで。私は事実を述べただけよ」
続く声は、凛とした女性のもの。ジニーは最後の一文を書き終えるとペンを置き、笑顔で仲間達を振り返った。
「二人共おかえり〜! なになに、情報手に入らなかった感じ?」
近々四人で探索する予定の洞窟に、ロベルトとグスタフの二人は行ったことがあるという。しかしそれも随分と前の話で、最新の情報を仕入れてくるとロベルトが言い出したのは、四人揃っての朝食を終えた直後だった。危険な場所に行くなら、少しでも情報は多い方がいい。トラブルまで持ち帰ってくることも時々あるが、有益な情報を得るのも大抵ロベルトだ。いつもどおり自然と彼に任せようという流れになった時、意外にもプルミエールが同行を申し出た。
「いつまでも、あなた一人に任せきりというわけにもいかないでしょう。側で学ばせてもらうわ」
「へへ、そこまで言うならこのロベルト様お得意の情報収集能力、お見せしないわけにはいかねえなあ!」
思わぬ形で評価されたロベルトは見るからに気を良くしていたというのに、今は不服そうに口を尖らせている。聞いてくれよ〜と言いながら、彼はジニーの右側の椅子を引いた。
「ちゃんと情報は手に入ったんだよ。信用出来る相手だし、それは問題ない」
「問題はこれよ」
ロベルトの正面の席に着いたプルミエールが取り出したのは、一枚の見取り図。テーブルの真ん中に置かれたそれは、おそらく件の洞窟の地図だろう。地図に目を落としたグスタフの眉間に、深いしわが刻まれる。
「ああ、ロベルトが書き込んだのか……」
「どれどれ〜」
地図を手に取ったジニーはというと、首を傾げる羽目になった。パッと見地図の上下が分からなかったのだ。それは、思っていた以上に洞窟が複雑な構造だったという理由も、ある。あるが――。
「ほら、やっぱり読めないじゃない」
「読めねえってことはないだろう……さすがに、なあ?」
縋るような視線にジニーは食い入るように見ていた地図の向きを、くるりと変えた。プルミエールの言うとおりロベルトの字は癖が強いせいか、読みにくい。今回は地図に合わせて細かく書かれているから、尚更だ。それでもよくよく見れば、判別出来ないわけではない。しばらくして表情を明るくしたジニーは、テーブルに置き直した地図を指差した。
「ここ、行き止まりって書いてある。こっちは多分、アリの巣注意ね!」
「正解! さすがジニーちゃん!」
「それじゃあまるで、クイズじゃない」
溜息混じりの声に、ロベルトは恨めしそうな目を向ける。
「おいおい、プルミエールさんよ。自分で言うのもなんだが、読み書き出来るだけ上等なもんだぜ? 一から十まで学べるのなんて、裕福な暮らしをしてる奴らばかりさ」
「それは……そうなのかもしれないけれど。それでも、もう少し丁寧に書くことは出来る筈でしょう?」
一瞬言葉に詰まりながらも、プルミエールはきっぱりと言い返した。その様子にたじろいだロベルトが、慌ててジニーの方を振り向く。先ほどまでとは打って変わって、弱々しい表情だ。
「ジニーちゃ〜ん、助けてくれよ〜!」
「んー、でもプルミエールの言いたいことも分かるよ? ロベルトの字って、何だか暗号みたいだもん」
「ジ、ジニーちゃんまで?! おいグスタフ! お前だけは俺の味方だよな!」
グスタフは悲痛な声を上げる相棒を一瞥もせず、地図を見下ろしたまま小さく息をついた。
「俺はもう慣れたから問題ないが……全員で共有するものくらい、読みやすい字で書いた方がいいと思うぞ」
「くそ、俺に味方はいねえのか……!」
いよいよロベルトが天を仰ぐ。さすがに少しかわいそうになってきて励まそうと思ったジニーだったが、プルミエールが声を掛けてくる方が早かった。
「そういえば、ジニーは意外と字が綺麗よね」
彼女の視線は、ジニーの手元を向いていた。地図の方ではなく、先ほど書き終えたばかりの手紙をじっと見つめている。ワイドで暮らす母ディアナへ宛てたものだ。
「意外はちょっとヒドくない?」
「そうね、失礼だったわ。ごめんなさい」
ジト目を向けたものの、ジニーが本気で腹を立てたわけでもないことくらい、プルミエールだってお見通しの筈だ。それでも律儀に謝罪してくるのが真面目な彼女らしくて、ジニーはつい笑ってしまう。
「やっぱり読み書きも、タイクーンから教わったのかい?」
そう問いかけてきたロベルトは、すでにけろりとしていた。確かに冒険者として必要な知識は祖父から教わっていたが、ジニーは首を横に振る。
「もちろんおじいちゃんに教えてもらったこともあるけど、大体はママよ」
「あら。ジニーのお母様は多才な方なのね」
「うん!」
お気に入りのビスチェが母お手製だというのは、仲間達にもう何度も自慢してある。手料理だって、おいしいものばかりだ。誇らしげに胸を張るジニーだったが、地図に視線を落とすと声のトーンを少しだけ下げた。
「でもママも昔は少し読めるくらいで、苦手だったんだって。書く方は特にダメだったみたい」
個性的な字を指先でなぞってから、ジニーは顔を上げた。
「大人になってパパと出会って、初めて勉強したって言ってたわ」
途端に仲間達の顔つきが神妙なものになる。ジニーが父親についての事実を知ったのは、北大陸にやってきたあとだ。そしてこのテーブルに着く全員が、そのことを知っている。涙が止まらなかった日を思い返しながらも、ジニーのアニマは至極穏やかだった。
「世界中あちこち旅してるパパと手紙でお話したい一心で、ママは頑張ったのよ。すごいよね!」
「そりゃすげえ、愛の力ってやつだな!」
力強い相づちに、ジニーはふふっと笑う。自分のことではないのに、褒められた気分だった。
「そのことをママがすごく楽しそうに話すから、私もパパに手紙を出したくなっちゃって……。きっとママ、困ってたと思うのに「それならパパが読めるように、キレイに書くのよ」って、字の書き方を教えてくれたの!」
あの時「お前のパパはいつも忙しくしているから、届かないかもしれんぞ」と念を押してきた祖父も、「昔から、ろくに返事が返ってきた試しがないのよね」と拗ねたように笑った母も、アニマが震えていたのをジニーは幼いながらに感じ取っていた。その理由を、二人が自分と同じ寂しさを抱えているからだと思い込んでいたのだ。届く筈がないと知りながら、母は何度も一緒に父への手紙を書いてくれた。
ふと、あの手紙はどうなったのだろうと疑問が過ぎる。どこかに届けられたのだろうか。だけど行き着いた先がどこであれ、母達が改めて読んでくれたに違いなかった。だって二人はいつも、ジニーの寂しさに優しく寄り添ってくれたから。ひょっとしたら、家のどこかにしまってあるかもしれない。そう考えるだけで、アニマがぽかぽかと温まる気がした。
「手紙じゃないけど、ロベルトも私達のこと思い浮かべながら書いたら、字が上手になるんじゃないかな〜?」
そう笑いかければ、ロベルトはハハッと頬を掻きながら眉尻を下げた。
「ジニーちゃんにそこまで言われちまったら、頑張るしかないよな〜」
「俺が同じようなことを言った時には耳すら傾けなかったのに、お前という奴は……」
グスタフは呆れているというより、むしろ感心しているふうに見えた。諦めたように肩を竦めたのはプルミエールだ。そんな彼女の赤い目が、再度ジニーに向けられる。
「それにしても。あなたが手紙を書いてるところなんて、久しぶりに見たわね」
さすがプルミエール、鋭い。ジニーは誤魔化すようにえへへと笑った。旅の合間に書いたのは、祖父と再会した直後に急かされて書いた一通だけだ。
「実はこの間帰った時、ママと約束したの」
エッグを打ち破ったあと、ジニーは一度ウィルと共にワイドの自宅に戻り、久しぶりに母と顔を合わせた。絶対に怒られる。そう思っていたのにディアナは喜びに顔を綻ばせ、そして泣きながら謝ってきた。
「パパの……リッチのことを黙っていて、ごめんなさい」
「どうしてママが謝るの?」
祖父も母も、父の最期を直接その目で確かめたわけではなかった。だからもしかすると、心のどこかでリッチが無事であることを信じていたのかもしれない。自分だったらきっとそうだったと、ジニーは思うのだ。そして何よりも、自分の為を思って内緒にしてくれていた二人に、怒れる筈がなかった。
「ねえママ。私、ノースゲートを拠点にして冒険を続けようと思ってるの」
「……ママとパパが出会った場所だわ」
母の目がきらりと輝いて見えたのは、涙のせいだけではないだろう。目頭が熱くなってくるのを感じながら、ジニーは深く頷いた。
「そうよ、私もそこで大切な仲間達と出会ったの。――だからね、ママ」
家出するまで気付かなかった母のアニマの衰えを、包み込むようにジニーはディアナの体を強く抱きしめた。冒険は続けたい。けれど、これ以上母を悲しませたくもなかった。
「手紙、送ってきて。たまにでいいから」
剥き出しのジニーの肩に落ちてくる涙は冷たいのに、それから感じるアニマは不思議なほどあたたかい。
「だったら、ちゃんと返事はよこすのよ。……そこだけは、パパに似るのは許しませんからね!」
後ろに控えていたウィルが、盛大に吹き出した。ジニーもまた涙を流しながら、母と笑い合っていた。
ジニーが自分まで泣いたことだけ伏せて話すと、プルミエールは僅かに目を伏せながらも微笑んだ。
「とても素敵な約束だわ」
「そうだな。待ってる側の人間からすれば、手紙はさぞかし嬉しいものだろう。……ジニー、遅くなっても必ず返事は書いてやれ」
穏やかな声で言ったグスタフは、そっと目を閉じた。彼もプルミエールも、何か思うところがあるのだろう。ジニーと同じように考えたのか、ロベルトは二人の顔を交互に見遣った。
「何だよ二人共、他人事みたいに。喜んで受け取ってくれそうな奴の顔が浮かぶなら、お前らだって書いてやればいいじゃないか」
「そういうつもりで言ったわけでは。……ああだが、あいつも手紙を楽しみにしていたな」
目を開いたグスタフの視線はテーブルの上に向いてはいたが、どこか別の場所を見つめているようだった。その表情は少し寂しげにも、何かを懐かしんでいるふうにも見える。
「私には、そんな人……」
結局プルミエールは「いない」と断言しないまま、口を閉ざした。手紙を書きたいと思える相手の顔は、浮かんだのだろうか。ジニーは少しだけ気になりつつも、聞き出そうとは思わなかった。いつかプルミエールが話したくなったその時に、あれこれ聞いてやればいい。
「約束なんかなくても、サプライズで届く手紙も嬉しいもんだぜ。な、ジニーちゃん!」
飛んできたウインクに、ジニーは大きく頷く。
「うん、きっと喜んでくれるよね! 私だっておじいちゃんとは約束してないけど、これから書くつもりなの!」
しわだらけの顔をさらにしわしわにさせて笑う祖父の姿を思い浮かべれば、ジニーもわくわくしてくる。共にエッグを倒したもう一人の仲間にも、送ってみようか。なんてことを考えながら母宛ての手紙をしまったジニーは、さっそく次の手紙に取り掛かろうとした。それを中断させたのは、大きな音だった。一瞬、静まり返るテーブル。
「お、やっぱりジニーちゃん、お昼まだだったな!」
皆の視線が、音の発生源に集まっている。またもや音を立てた腹を手で押さえたジニーは、自分の顔が赤くなっているのが嫌でも分かった。顔どころか、全身熱い。
「一応声は掛けたんだが、手紙を書くのに夢中のようだったからな」
だから俺もまだなんだ、とグスタフは続ける。
「ジニーちゃんのことだからみんなで食べたがるだろうと思って、俺達も急いで帰ってきたんだよ。な、プルミエール」
「私は単に食欲がなかっただけよ。二人共、ジニーを甘やかしすぎじゃないかしら」
突き放すような態度を取るプルミエールだったが、何だかんだでいつも付き合ってくれている気がする。ジニーは視線と恥じらいを吹き飛ばすように勢いよく頭を振ると、手を挙げてカウンターの向こうにいる馴染みのマスターを呼んだ。
四人の前に置かれた定食は、全部同じものだった。ワイドで暮らしていた時と違って食事に選択の余地はほとんどないものの、ジニーはノースゲートでの暮らしも結構気に入っている。少々不便な方が、冒険者らしくていい。北大陸近海で獲れる魚の独特な味にも、大分慣れたものだ。
やっぱりパパも、同じ物を食べたのかな。ふいにそう考えたジニーは、食事のあとに書く手紙をもう一通増やそうと心に決めた。
→後日談(プルミエールとグスタフ)

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