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「ふわぁ〜あ」
大きな欠伸に振り返ってみると、ヨーグルトクリームはハッとした顔をぶんぶん大きく横に振った。しかし灰色がかった紫の瞳は今にも閉じてしまいそうで、明らかに眠いのを我慢しているのが見て取れる。まるで子どものような素振りをする主に、ライラックは肩を竦めた。
「眠いなら、さっさと休め」
「ううー、……いや、まだ起きてるよ!」
「またか……」
ベッドの上であぐらをかいた格好のまま、ヨーグルトクリームは目をカッと見開く。いつもは横になるなりすぐ眠り始めるほど寝つきがいいのに、一体どういう風の吹き回しだろうか。これが今日に限ってのことなら、そう気にすることでもない。気分屋な主の、単なる気まぐれ。まあそんな日だってあるだろうと思うだけだ。
だけどここ数日、彼はなかなか寝ようとしない。とはいえ普段それほど夜更かししない彼は、日付が変わって二時間経った頃には寝息を立てている。ライラックが強制的に眠らせる必要もなかった。だが護衛の立場からすれば、あまり好ましい状況とはいえない。
ちらりと見遣った窓際では、並べられた壺に紛れるようにしてランプ執事がうとうとしている。仕える主の為寝るのを我慢しているようだが、散々我儘に付き合わされたあとだ。限界なのも無理はない。お互いに振り回されて大変だな、とライラックは胸中だけで呟くに留め、ベッドに視線を戻した。
「そこまで夢中になるような宝でも見つけたのか?」
「……うん。まあ、そんなところかな」
取っかえ引っ変え地図やら資料やらを捲るヨーグルトクリームは、再び欠伸をした。手にあるそれらにほとんど目を通していないのは、最初からライラックも気付いている。起きている為の口実に過ぎない。けれど、そこまでして寝ようとしない理由が、さっぱり分からないのだ。今日も言い訳しか口にしない主にひっそり溜息をこぼしながら、部屋の中をさっと見回した。特に異常なし。
寝不足のせいで見るからに隙だらけ、なんてことになれば、彼を狙う輩達から格好の的になってしまう。不安の芽はなるべく摘み取っておいた方がいい。護衛として主を守りきる自信がないわけではなかったが……なかった、筈なのだ。
少し前に起きた事件を思い出し、ライラックはぎゅっと眉を寄せる。事件といっても、公にはなっていない。ひたすら眠り続けているだけに見えた主がどれほど危険な状態であったかを知っているのは、自分と、限られたごく一部のものだけ。もしもあの時、使われていた毒が即死級の物だったなら――思い返しただけで心臓が凍りつきそうになる。元同業者の女がこの街に姿を現すようになってからは、特に用心していたつもりだったのに。
紙を捲る音さえしなくなったことに気付き、ライラックはベッドを覗き込む。思ったとおり目に入ってきたのは、自分の腕を枕にうつ伏せになっている主の姿。周りに散らばる紙を掻き集めてベッド近くのローテーブルに載せると、彼をきちんと寝かせ直した。
「……おやすみ」
何やら寝言を呟いている無邪気な寝顔に微笑みを落としてから、天蓋を引いてやる。ランプ執事の方も完全に眠ってしまったようだった。部屋は静寂に包まれる。
今夜も何事もなければいいが。呼吸の音すら潜め、ライラックはカーテンの向こうを睨みつける。もう誰にも主を傷つけさせはしない。ヨーグルトクリームを守ることこそ、ただひとつの役目なのだから。
欠伸の連発を目の当たりにして表情を強ばらせたのは、昼食の時間が終わってすぐ館を訪ねてきた行商人だ。
「こ、これも、お気に召しませんでしたか……!」
「うん? ……何だって?」
浮いたカーペットの上でヨーグルトクリームが目元を擦りながら首を傾げるが、それも良くなかったらしい。焦ったように次の荷を取り出した行商人は、早口で商品の紹介を始める。ぼんやりとした主の頭にまったく入っていないのは、火を見るより明らかだ。
さっきから全然取引が成立しない。不毛なやりとりを続ける彼らの間に割って入ったライラックは、低い声で告げる。
「これ以上は時間の無駄だ」
すると顔を青くした行商人は手早く荷物をまとめると「次はもっといい物を持って参ります!」と言って、逃げるように部屋を出ていってしまった。
「あ〜あ。ダメじゃないか、怖がらせちゃあ。面白い物を持ってきてくれなくなったら、どうするんだ」
「……オレはお前に言ったつもりだったんだがな」
こんな時だけちゃっかり事態を把握している主をじろりと睨めつけて、ライラックは続ける。
「そろそろ意味のない夜更かしはやめにして、ちゃんと眠るんだ」
「何を怒ってるんだい? たとえ僕が寝不足でへろへろになったとしても、キミがいるんだから問題ないよ」
つい最近、自分が暗殺されかけたことを知らないままのヨーグルトクリームは、呑気にそんなことを言ってのける。しかしわざわざ彼の耳に入れて、不安を煽る必要はない。ライラックは黙り込み、自分より薄い紫の瞳をじっと見据える。長い付き合いだ。言葉なんてなくとも、こちらが真剣なのは分かるだろう。
「あーもう! 分かったから、そんなに睨まないでよ〜。ちゃんと寝るからさあ」
ヨーグルトクリームは拗ねた顔でカーペットから降りると、そのまま歩き始める。彼に扇子で風を送っていたランプ執事が慌ててあとを追うのを見つめながら、ライラックは息をついた。好きにさせてやりたいのは山々だが、彼の身の上を考えると難しい。命を狙われることも少なくないのだ。現に、今はこうして側で守っている自分だって、元々は彼を暗殺する為に近づいたのだから。
遠ざかっていく主の背に、静かに取り出したチャクラムを向ける。隙だらけだ。そう、チャンスならいくらでもあった筈なのに、結局ライラックはヨーグルトクリームを始末することが出来なかった。我儘で世間知らずのくせに、彼はとても大切なことを教えてくれたから。おそらく本人は、そんなつもり毛頭もなかっただろうが。
ヨーグルトクリームが振り向く気配を察知して、素早くチャクラムをしまい込む。
「何やってるの? キミは僕の護衛なんだから、ちゃんとついてきてよ」
「分かった。だが、一体どこに行くつもりだ。このあとは街の商人と――」
「パスパス! 時間の無駄だって言ったのはキミだろ。眠たいから昼寝に変更さ」
早く早くと手招きして急かしてくるので、主の隣へ急いだ。このあとの予定を全部キャンセルとなると、側近達が頭を痛めるだろうが仕方がない。案の定すれ違いざまに「あとのことはよろしくね!」と命じられた側近が恨みがましい視線をライラックに寄越してきたが、どのみち先ほどのようなやりとりをしたところで、せいぜい価値のない代物を買わされるか、反感を買うかのどちらかだろう。知らんぷりを決め込み、ヨーグルトクリームの寝室に向かった。
部屋に入るなり広いベッドにごろんと寝転んだ主は、大きな欠伸と共に体を伸ばす。共にやってきたランプ執事が再び扇子を持ち上げるが、ヨーグルトクリームは笑いながらそれを制止した。
「キミも休んでいいよ」
ためらう素振りを見せながらも、ランプ執事は窓際に飛んでいく。落ち着くのか、壺の側で休むつもりらしい。
この調子なら大人しく眠ってくれそうだと判断して、ライラックは天蓋を引いた。ドアを背に見張りをしようと思っていたのだが、すぐさま呼び止められる。
「ライラックも休んでよ」
「……お前が眠ったのを確認したら、オレも少し休む」
「とか言って、全然休まないじゃないか、キミ」
天蓋が開かれると同時に腕を掴まれる。下から見上げてくるヨーグルトクリームは何かいいことでも思いついたのか、ぱあっと笑顔になった。
「そうだ一緒に寝よう! そうすればキミは僕の護衛も出来るし、休めるし、ちょうどいいだろ?」
「何がちょうどいいんだ……」
結局満面の笑みに根負けして、ライラックはフェイスベールや装飾品を取り外した。その様子を満足げに眺めていた主の頭を軽くはたくと、つけっぱなしのターバンを解いてやる。それらをまとめてローテーブルに置いて、内側から天蓋を閉じた。広いベッドなので二人並んで寝ても窮屈ではない筈なのに、ヨーグルトクリームがくっついてくるせいで狭い。
「遊んでないでさっさと寝ろ」
「けち!」
むうと頬を膨らませた彼は、渋々体を離したものの、それでもライラックのことをじっと見つめてくる。
「眠いんじゃなかったのか」
「実はさあ」
目を閉じるどころか、今度は口まで開いてしまう。やれやれと思いつつも見つめ返してやると、彼はバツが悪そうに顔を歪ませた。
「最近、見たくない夢を見ちゃうから嫌なんだよね」
「……怖い夢でも見るのか?」
意外な告白にライラックは目をぱちぱちと瞬かせる。今までそんな理由でヨーグルトクリームが眠れなくなるなんて、聞いたことがなかった。すると彼はふるふると首を横に振り、話を続ける。
「別に怖くはないよ。キミの夢だし」
「オレの?」
「うん。ほら、少し前に僕が何日も寝てた時に見たって言った、あの夢だよ」
例の事件のあと目を覚ました彼は、確かにおかしな夢を見たと言っていた。ライラックが不思議な村で、怪しげなことをしていたという妙な夢。それが解毒剤を手に入れようと古巣で動き回っていた時の状況にあまりにも酷似していた為、ライラックは話を聞いて密かに驚いたものだ。
だが所詮、夢に過ぎない。まだヨーグルトクリームが気にしているとは思ってもいなかった。
「怖い夢じゃないなら、何がそんなに嫌なんだ?」
「だって」
すっと伸びてきた手を、ライラックは素直に受け入れる。もしその手が主以外のものなら、反射的に手を掴んだか、もしくはかわしていただろう。頬に感じる温もりに目を細め、彼を見遣った。
「あの夢のキミは、やっぱり変だもん」
「……ただの夢なのに、そんなことを気にするのか」
ちくりと胸が痛んだ気がしたが、今更過去を打ち明けるつもりなんてない。知らない方がいいこともあるのだ。頬にある手をそっと剥がすと、ヨーグルトクリームが口を尖らせる。
「当たり前じゃないか! キミは僕の護衛だよ? 僕の側にいるのが当然なのに、一緒にいないなんておかしいよ! 大体、僕の夢に――」
「……? 待て」
再び頬に伸ばされようとしていた手をがしりと掴んで、ライラックは主の言葉を遮る。
「もう一度聞くが、お前は何故その夢が嫌なんだ」
へ? と不思議そうにまばたきを繰り返した主は、もう一方の手で自分の顔を指し示しながら答えた。
「そりゃあ一番の理由は、いつまで経っても僕が登場しないからに決まってるでしょ? 僕の夢なのに納得いかないよ! それにしても、夢の中のキミはとても僕の護衛には見えなかったけど、あれはあれで何だかカッコ良かった気もするな〜」
自らを指差していた手が、ライラックの頬をぺちんと叩く。
「さすがは僕自慢の護衛だね! けど僕の夢の主人公は、やっぱり僕じゃないと!」
「お前……」
ライラックの口から盛大な溜息が漏れ出る。何だか力が抜けてしまった。これ幸いとばかりに自由になった手も使って、ヨーグルトクリームがぎゅうぎゅうと抱きしめてくる。
「いつでもちゃんと僕の側にいて、守ってよね!」
「夢の中までは無理だろう」
無茶振りをするなと言いながらも、ライラックの頬は勝手に緩んでしまう。彼に頼られるのは、嫌いじゃない。
「一緒に寝たら、二人で空を飛ぶ夢を見られるかな?」
笑い声と共に落ちてくる声は、もう随分と眠たそうだ。
主を守るのは護衛としての役目ではあるが、それとは別に、彼を守ってやらなければという気持ちが芽生えたのは、一体いつのことだっただろうか。あたたかな温もりの中でそんなことを考えながら、ライラックは知らないうちにまぶたを下ろしていた。
目を開くと、魔法のカーペットに乗って空を飛んでいた。突然のことにぎょっとなったライラックが咄嗟に掴んだのは、すぐ隣に座っている人物の肩だった。
「さすがのキミでも空の上となると、そんな顔をするんだね」
こちらを見て笑みを浮かべているのは、確かにヨーグルトクリームだった。しかし、どこか違和感がある。何者かが主に成り済ましているのか? ぱっと手を離したライラックを見て、彼はおかしそうに肩を揺らした。
「照れちゃった? そうそう落ちないから大丈夫だよ。でもまだ怖いなら、僕が手を握っててあげる!」
言いながら彼が手を包み込んでくる。ライラックの体は反射的に動くことはなかった。目の前にいるのは、間違いなく本物の主だ。馴染みのある温もりに警戒を解いて彼の顔をよく見てみれば、違和感の正体が分かった。いつもより顔つきが幼いし、等身も縮んでいる気がする。そしてその変化は、彼に限ってのことではない。
ライラックは自分の体をざっと見下ろした。着込んでいる為分かりにくいが、袖から出ている手がほっそりしていることから、体つきが変わってしまっていることが伺える。まるで二人が初めて顔を合わせた時まで時間が巻き戻ってしまったかのような――ああそうか。もう一度主の顔を確かめると、思わず吹き出してしまった。
「わっ、珍しい〜!」
ライラックが笑ったのを見て、ヨーグルトクリームは目を丸くして驚いている。
まさか本当に、一緒に空を飛ぶ夢を見るだなんて。彼も同じ夢を見ているのだろうか。じっと見つめているうちに、目の前の主が苦笑する。
「ちょっとライラック。キミがご機嫌なのは嬉しいけど、僕の顔ばっか見てないで景色を楽しんでよー! せっかくカーペットに乗せてあげたんだからさ」
「……ああ、悪い」
流れる景色に視線を移しながら、ライラックは頷く。初めてカーペットに乗せてもらった時の夢だから、二人共まだ少年の頃の背格好になっているのだ。星がきらめく空を見上げれば、確かに昔、こんなふうに夜空を見て感動した記憶がある。
「ね、カーペットの上で見る夜空は格別でしょ!」
「そうだな。……そうだったよ」
特別にキミをカーペットに乗せてあげようと言われた時、ライラックが真っ先に考えたのは「事故に見せかけて彼を始末出来ないだろうか」なんてことだったと思う。まわりがいくら言っても空の散歩の際には護衛を一人もつけないヨーグルトクリームが、初めて他人を乗せてやると言ったのだ。驚いたが、チャンスだった。
だけどカーペットに乗って、知ってしまった。星空を見上げている主は、集めた骨董品を眺めている時とはまた別の笑顔を浮かべていて。空を飛ぶ初めての感覚に目を白黒させている自分を見て笑う姿も、普段のへらへらした彼とは違う印象を受けた。
軽薄そうに見えた彼が新しく護衛として雇われた自分のことを、実は警戒していたのだと。そしてこの日、ついに心を許してくれたのだと。屈託のないその笑みを見て、初めて気が付いたのだ。
そこまで思い出した時には、何故こんな夢を見ているのか、ライラックはもう分かっていた。だから心置きなく夢を楽しみながら、朝を待つことにした。
目を覚ましたライラックは、絡みついた腕から抜け出る。すると身じろぎ始めた主の顔を、まじまじと見下ろした。やがて、薄く目が開かれる。
「……はよ〜」
「おはよう、ヨーグルトクリーム」
まだ寝ぼけながら挨拶をする主に微笑みかければ、彼はぱちくりと目を瞬かせた。
「何? 珍しく朝からご機嫌だね?」
「空を飛ぶ夢は見れたか? オレは見たぞ」
うそ!? と叫んだヨーグルトクリームは勢いよく体を起こすなり、じとりと恨めしげな目を向けてくる。
「キミだけずるくない? あ〜あ、僕も見たかったのに」
今度はうなだれてしまう。朝から忙しい主の肩をぽんと叩いて顔を上げさせると、ライラックは天蓋越しに窓の方を指差した。
「だったら今夜、久しぶりにカーペットに乗せてくれ。その方が夢よりずっと楽しくなると思わないか?」
「それはいい提案だ!」
弾けるような笑顔で、主は力強く頷く。
遠い星空の下密かに芽吹いた感情のせいで、重要な任務を遂行出来なくなってしまった。だが、悔いはない。ライラックにとって主と過ごす日々は、どんな宝よりも価値があるからだ。膨大な報酬なんて必要なかった。
――だから、必ずヨーグルトクリームを守り抜いてみせる。これからも続いていく宝石のような日々に思いを馳せて、ライラックは笑った。
(by sakae)/
END
(23-10-01初出)
ファニヤミ2にて発行されたヨグライアンソロジー「GO AWAY」に寄稿させていただいたお話でした!以前も言いましたが昼寝させたつもりが翌朝までぐっすり眠る二人になってしまいました…!お互い安心出来るんでしょうね〜!
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