花笑み

 淡い紅色の花が風に揺られて散る様を、まだ幼かった頃のグスタフは特別なものだとは認識していなかった。毎年限られた、ごく短い期間の間にだけ咲くあんずの花は見事なものではあったが、また次の春がやってくれば必ず花は咲く。それにどちらかというと、花が散ったあとに実る果実の方が楽しみだった。だから八歳の春、風邪をひいて寝込んでいる間に花が散ってしまった時も、それほど落胆しなかった。前年ファイアブランドの儀式を受けて以降よりいっそう剣の稽古に励むようになっていたのも、理由のひとつかもしれない。
 次にあんずが開花する頃には、すでにグスタフは父達と共にハン・ノヴァで暮らすようになっていた。ある日、街の中心部から離れた場所でピンクの花が咲いた木を見かけ、そういえば去年花見が出来なかったことを思い出したのだ。気候の違いからかヤーデより開花時期が遅いらしく、まだぽつぽつとしか咲いていない。
「あれは多分、あんずの木ではないよ」
 一緒にいた従兄のデーヴィドは物知りで、この辺りにあんずの木は生えていない筈だという。近づいて見上げた花は、確かに見慣れたものとは少し様子が違っていた。花びらの先に切れ込みが入ったような形をしているし、早くも生えている葉は赤みを帯びていた。従兄によればが反り返っていないのも、あんずとの相違点だそうだ。それらの特徴に、確信したようにデーヴィドが大きく頷く。
「やっぱり。これは桜に違いない」
「桜か。それなら、こっちではさくらんぼがたくさん採れるのかな?」
 実際に実った状態のさくらんぼを目にする機会こそなかったが、ヤーデでも少しだけ栽培されていた筈だ。グスタフも何度か口にしたことがある。近くの木に同じ花が咲いているのが見え期待を抱くも、隣からは小さな唸り声が上がった。
「うーん。……残念だけど、さくらんぼは採れないと思うぞ」
 桜の一種だというその木は、あんずやさくらんぼと同じように花が散ったあと実がなるものの、残念ながら食用には向いていないらしい。何だ、とグスタフは少しがっかりしてしまう。
「そうなのか。それなら、あんずの方がいいな」
 どうせなら食べられる方がいい。そんないかにも子供じみた理由から漏れ出た他愛もない一言に、困ったような笑みを花に向けていたデーヴィドは「そうだな」と、同意を示した。彼らしかぬ反応に、グスタフは驚いた記憶がある。
 あれはきっと、遠く離れた故郷を恋しがっていたのだ。そのことにグスタフが気付いたのは、実の名と身分を捨てたあとだった。
 冒険の途中ふとした瞬間に蘇る、ほんのりと甘いあんずの味や濃厚なブドウの香り。鋼の都にいた時なら堅苦しく窮屈な思いばかりをするそこより、ヤーデで暮らしていた頃の方が気楽だったと思う程度だったのに、無性に故郷が懐かしくて堪らなくなることがあった。けれど自ら捨て去った居場所を、懐かしむ資格なんてない。そう考えたグスタフはたどり着いた町でヤーデ産の物を見かけるたび胸が痛み、結局それらに手を付けることは出来なかった。

 だが今や、その痛みさえ過去のものとなっていた。

 一三〇七年、春。グスタフは久しぶりに咲き誇るあんずの木の下に立っていた。昨年のワイン作りのシーズン真っ只中、国中を包み込むブドウの香りに誘われるかのように、冒険者となって初めて故郷の土を踏んだ。それから半年ほど経った今、再びこの地にやってきたのは、やはりあんずの花を見たいと思い立ってのことだ。
「せっかく見頃の時期に来るのなら、お仲間の皆さんもお誘いすれば良かったのに」
 君の仲間を一目見てみたかったよ、と拗ねたように言ったのはデーヴィドだ。グスタフは花から従兄の顔へと視線を移す。昔と違って彼を見返すのに、顔を上げる必要はない。常に大きく感じていた彼の背を、いつの間にか追い越してしまっていた。
「一応軽く誘ってはみたんだが、生憎花より冒険な連中ばかりでな。まだ実の方が釣られてくれそうだ」
「なるほど。こっちの方ではクヴェルも見つからないというし、冒険者からしてみれば、ヤーデはつまらない場所かもしれないな」
 言いながらデーヴィドは花を見上げた。今年も綺麗に咲いてくれたんだが、と花を見遣る彼の目はとても優しげで。昔は彼が優秀だから植物についても詳しいのだと思い込んでいたが、ただ純粋に植物が好きなのかもしれない。彼から教わったことはたくさんあった筈なのに、従兄自身については案外知らないことも多いままであったと、グスタフは改めてかつての自分が甘えてばかりいたのを痛感した。今はもっと、知らないことだらけだろう。
「ヤーデ産のワインに興味を示している奴はいるから、そのうち連れてくるよ」
「それなら極上品を用意しておこう」
 さらりと返された一言に、それはそれで来るのをためらうのではないかとグスタフは思ったが、口には出さないでおいた。自分は何も知らなかったことにしておけばいい。
 それにしても。グスタフは空を仰ぎ、長い息を吐き出した。まだ夜の気配が色濃く残った空は、ほの暗い。
「まさか花見をするのに、あんな時間に叩き起こされるとは思わなかった」
 屋敷を出た時より明るくなってきてはいるが、日の出もまだだ。そのせいであんずの花も本来のやわらかな色より、ずっと暗く見える。
 昨日の夕刻屋敷にたどり着くまでにもあんずの花を遠目には見たものの、どうせなら近くで観賞したい。そう思って翌日の今日花を見にいきたいと言い出したのは、グスタフの方だ。しかし探索に出るわけではないからある程度ゆっくり休めると思っていたのに、まだ夜も明けきっていないうちから起こされる羽目になった。これでは普段と大差ない。暖かな春とはいえさすがに肌寒いし、時間がなかったせいで髪のセットも今ひとつだ。そういう意味では、人気がないのは幸いだったが。
 恨みがましい視線に、デーヴィドが苦笑する。
「悪かったよ。だが日中は、花を楽しんでいる者も多い。私がいると、穏やかな空気を台無しにしてしまうからね。邪魔になるようなことは、極力したくないんだ」
「台無しとは」
 大げさな、と続けようとして、グスタフは口ごもる。自分が呑気に花見を楽しんでいたのはずっと昔、子供の頃の話だ。それに祖父や父が一緒の時には厳戒態勢が敷かれ、人払いがされていたような記憶もある。あの頃とは事情が違うとはいえ、領主となった従兄が気ままに花を楽しむのは、意外に難しいのかもしれない。
 今日だって護衛にと同行を申し出る者が何人もいたのを、実際グスタフも目にしている。「凄腕のヴィジランツが一緒だから充分だ」とデーヴィドは断っていたが、グスタフの素性を察している様子の者達がいなければ、その言い分もすんなり通らなかっただろう。
「まあ屋敷からでも十分楽しめるから、私は満足しているよ」
「……そんなにはっきり見えたか?」
 グスタフは首を捻った。確かに高台にある屋敷から、この並木を始めとするいくつかのあんずの木は、見下ろせる位置にある。とはいえ、樹冠が色づいているのが遠目に分かる程度だろう。それでもデーヴィドは、幸せそうに花を見つめた。
「満開のあんずの木の下に人々が集っているのを見ると、安心するんだ。今年も無事に花見の季節を迎えることが出来た、とね」
「……」
 いつかこの南大陸が、ヤーデまでもが戦火に飲み込まれてしまう可能性を、グスタフも考えたことがないわけではなかった。拳を握り、俯く。もし和平会議が破綻し、戦争が長引いていれば。もしもサウスマウンドトップで、勝利したのが偽ギュスターヴ側だったなら――。想像するだけで、背筋が凍りつきそうだった。
 くちびるを引き結んだグスタフの顔を、デーヴィドが覗き込んでくる。
「花見に似つかわしくない顔だな? 去年からはさらに活気づいているから、あとでまた来てみるといい。素晴らしい光景を見られる筈さ」
「そうさせてもらおう」
 あたたかな声に、自然と強ばっていたグスタフの表情も緩んでいく。ハン・ノヴァ条約が調印されて以降、世界中が徐々に和やかなムードになっていったのは、エッグの行方を追ってあちこち駆け回っていたグスタフも体感していた。それはここ、ヤーデも例外ではない。秋に訪れた際昔より賑わっているように感じたのは、やはり気のせいではなかったのだ。町を行き交う人々は皆楽しそうで、そのアニマも喜びで満ち溢れていた。
 きっとそういったものを、平和と呼ぶのだろう。ならばその立役者にも、それを満喫する権利がある筈だ。
「だったら、あとで一緒に来ないか? 君だって、せっかくなら近くで見たいだろう」
 花も、心から花を楽しんでいる人達の表情も。近くで見る方がより楽しめるに違いない。そう考えての提案だったが、デーヴィドは微笑みつつも静かにを振った。
「私のことは気にせず楽しんでくれ。視察や他国の要人を案内することもあるから、実のところ花見をする機会は少なくない」
「……そうか」
 グスタフの想像する花見とは大分かけ離れている気がしたが、大人しく引き下がる。これ以上誘っても返事は変わらないように思えたからだ。デーヴィドが花見をするには、それ相応の理由が必要なのだろう。平穏な日々が続いていけば、彼だってもっと気軽に出掛けられるようになるかもしれない。グスタフはその日が一日でも早く来ることを願った。
 段々空が白んでいくと共に、あんずの花が優しく色づいていく。しばらく花を眺めていたグスタフだったが、ひらひらと落ちてくる一枚の花びらが目に留まり、それを追って隣に立つ従兄に視線を向けた。
 途端に込み上げてきたのは、懐かしい気持ちだった。数歩下がってみれば、花を楽しんでいるデーヴィドの周りを花びらが舞っているのがよく分かる。思えばグスタフの記憶の中、花吹雪の中心にいたのは、ほとんどが彼だった。
 視線に気付いたのか、デーヴィドの目がゆるりとこちらを向く。もしかしたら、彼も同じように過去の情景を重ねているのかもしれない。僅かに目を見張ったあと、彼はふっと口元を緩めて見返してきた。
 そのまま無言で見つめ合う。柔和な表情が優しい色合いの花にとても似合っていると、グスタフは思った。まるで一枚の美しい絵画のようだ。
 こんなふうに、笑える人だったんだな――。再会してから度々目にする従兄の穏やかな顔に、グスタフは密かに驚いていた。
 昔から、優しい人ではあったのだ。困った時には、いつだって手を差し伸べてくれた。しかし兄弟同然に育った遠慮のなさ故か、もしくは彼なりの愛情からか、従弟であるグスタフに対しては厳しい一面を見せることも多かった。特にハン・ノヴァに移ってからは、苦言を呈される頻度が跳ね上がってしまったのだ。自分の為を思って言ってくれているのだと頭では分かっていても、そんな時のデーヴィドは冷たくすら見えた。
 それでも彼が笑うことだって、もちろんあった。けれどもグスタフには従兄の笑顔がどこか寂しげだったり、無理して笑みを作っているように感じることも少なくなかった。達観的な彼には子供の頃から見えているものが自分よりずっと多く、その分感じていた不安も大きかったのかもしれない。今になって、そう思う。
 ――お前、本当に丸くなったよな〜。
 不意にグスタフの耳元で蘇ったのは、長年組んでいる相棒の声。エッグとの決戦からしばらく経ったある日、突然言われた言葉だ。一体何の話かとグスタフが困惑していると、前よりモテやがってよーとくちびるを尖らせた男は「でもそれが、お前本来のアニマの形なんだろうな」と、笑いながら肩を小突いてきたのだ。ああ、そうか。
 グスタフは優しい色の瞳を見返しながら、微笑む。彼の肩の荷も、おそらく軽くなったのだろう。今の自分と同じように。
 頭上を通り過ぎていく軽やかなさえずりに、グスタフは耳を傾けた。その声の主がどんな鳥なのか、視線を向けなくとも知っている。だけども、しっかりイメージしようとした途端に記憶があやふやとなる。子供の頃飽きるほど目にした筈のその鳥は、南大陸を出てからはとんと見かけなくなった。あの頃当たり前だった日常は、随分と変わり果ててしまった。
 そのことを、悲観したいわけではなかった。ただただ過去を懐かしく思う。今となっては家を出たことに、後悔はない。だからこそ色あせてしまった思い出が、もう一度輝きを取り戻したのだ。
「さて、そろそろ戻ろうか」
 やがて視線を外したデーヴィドが、空を見上げて言った。すっかり夜が遠のいた空は部分的に薄紅色に染まり、花が咲いているようにも見える。ひっそりと始まった花見のフィナーレだ。

 来た道を引き返し始めたデーヴィドのあとに、グスタフも続いた。遠くの方に、いくつか人影が見える。明るくなるにつれ、動き始める人の数も増えてくる。出会った領民にわざわざ気を使わせたくないのだろう、デーヴィドは行きしより足早に進んだ。だが横目に入ったそれに、グスタフは足を止めていた。
「デーヴィド」
 従兄を呼び止めたのは、並木から外れて立っている一本のあんずの木の近く。まだ側に人の気配はない。急いでいただろうに、数歩先で振り返ったデーヴィドは嫌な顔ひとつしなかった。
「来年の春、一日でいいから予定を空けておいてくれないか」
「何だ、もう来年の話か。随分と気が早いな」
 小首を傾げた彼の髪にいくつか花びらがついているのにグスタフは気付いていたが、黙っておいた。何となく、そのままでいいと思ったからだ。こちらを向いたデーヴィドがうっすら笑みを浮かべているのを見るに、自分の方も似たような状態だろう。グスタフは気にもせず、花を見据えて言った。
「やはり仲間達に、満開のあんずを見てもらいたくなってな。確か、町の外にも名所はあったな?」
 ワイド方面へ伸びる街道から少し離れた山間部に、人の手が入っていないにもかかわらず毎年立派な花を咲かせるあんずの群生地がある。とはいえ、わざわざ安全な町を出てまで見に行く住民はほとんどいない。花が咲き乱れる時期に近くを通る予定のある人々に、密かに人気になっている程度だ。
「ああ、人がいない代わりにモンスターはいるかもしれないが……心配は不要か。来年は仲間達とゆっくり花見を楽しむといい」
 一度眉を寄せたデーヴィドだったが、すぐに表情を和らげた。この辺りのモンスター相手に今のグスタフやその仲間達なら、問題ないと判断したようだった。認められているのだと、グスタフは何だかくすぐったい気持ちになる。
 舞い落ちてきた花びらを、グスタフは指先でそっと摘んで受け止めた。そのまま従兄に歩み寄る。
「その時は、きっと伝説のタイクーンも一緒だ。――偉大な御仁を案内するのはヤーデ伯である君が相応しいと思うんだが、どうだろう?」
 薄めの金髪にそっと淡紅色を足してやると、黙ったままこちらを見上げるデーヴィドが目を瞬かせた。続けてグスタフは笑いかける。
「もちろん、君の身の安全も保証しよう。何せ、凄腕のヴィジランツがついているからな」
 ふわりと吹いた風に、新たに花びらの雨が降る。目を細めたデーヴィドは、ゆっくりと口を開いた。
「ヤーデの魅力をアピールするのも、私の大事な仕事だ。断る理由がないな」
 朝焼けの光に照らされたその顔が、グスタフには何よりも輝いて見えた。


END
(26-05-16初出)
ヤーデでは花見といえばあんず!だと良いなあと思って書いたお話でした!ハン・ノヴァの桜はヤマザクラをイメージ。デーヴィドが植物好きそうなのは勝手な妄想からです。
直接戦地にならなかった南大陸でも戦争への不安はもちろんあったでしょうから、戦後はデーヴィドも穏やかに過ごす人々を見て平和を実感してほしいなあと思います…!

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